祖母想う、花冷えの日には

彼岸すぎても、まだまだ寒さを感じる。
この時期を、『花冷え』と美しく呼ぶこと知ったのは、中学生になったばかりだった。

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私の祖母は晩年になり、リューマチに悩まされていた。
痛みが酷く、手指の節くれが目立って曲がるようになってきた。

明るく朗らかで、好奇心に溢れていた祖母は出かけることが大好きだったのに、私が中学生のころは家で臥せることが多くなっていった。

祖母の部屋にいくと、自分の手を見せながら、
「花冷えする日はな、おばあちゃんの指が痛むんやで」と曲がってしまった指を揉むのだ。

そうして、桜も咲く時期に、一時的に冷え込む事を花冷えというと、言った。


桜の前に咲く水仙は、祖母が好きな花だった。
昔は今のように大きな花ではなく、しいて言えば、花ニラのようなふうだったと、記憶している。

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リューマチを病む祖母にとって、花冷えの日はつらい。
そこに雨ともなれば、苦痛が増す。


夏から秋、冬から春へと季節が変わるころに、祖母のあの変形した手指を思い出す。
リューマチを病んでいない私には、祖母の苦痛を推し量ることはできない。

ただ、季節の変わり目になると身体の変調につられて心までが痛むことが、年々、多くなり、
それに伴って祖母を思い出す。


今年は、野暮用でお彼岸のお墓詣りには行けず、花冷えを感じながら、こうして祖母を偲ぶばかり。

リューマチは痛い、その痛さは口では言い表せない、強く深く、身体の芯からジンジンと攻めてくる。
中学生の私に、祖母はそんなふうに話した。
気丈な人であった祖母は、苦痛に歪む顔、痛みに耐えかねる姿を、私たち孫には一度たりとも見せたことはなかった。

大阪人にしては珍しく、彫りの深い顔立ちの祖母は、
早い時期から、いざという時の自分の遺影を、嫁である母に託していた。

「わたしの死に顔なんか、絶対に子どもらに見せたらあかんよ」
「明るうに笑ろてる顔の、いつも元気なおばあちゃんを覚えていたら、それでええんや」

そう嫁に遺言し、手筈を整え安堵し、臨終の床についた。

しばらくして、祖母は家で亡くなった。
けれど、私たち孫は、遺言どおり、祖母の最期の顔を見ていない。

今も私の記憶のなかのおばあちゃんは、朗々と大らかに顔中で笑う人、として残っている。

実家の仏間にある祖母の遺影は、私が記憶している、笑顔その人のまま。
他の遺影の中にあって、それはひときわ目立っていて、それも祖母らしいなと思うのだ。


今朝、唐突に湧き上がるように出てきたこの祖母の記憶。
ひょっとしたら、家が解体されることへの、祖母からのなんらかのメッセージなんだろうか。






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薔薇のように華やかな人と、私

高校生1年生の授業では、美術・書道・音楽は選択科目だった。
絵を描くのが小さなころから好きだった私は、迷わず美術を選んだ。

ある日、授業で静物画の写生があった。
美術教室の中央には、真っ白な円形の台座があり、その上に林檎、バナナ、いろんな形の瓶、花、などが置かれている。

それぞれが自分の描きたい静物を選び、顔を傾けたり、首を傾げたり、あるいは静物そのモノの配置を並べ替えているクラスメイトもいた。


秋の木漏れ日射す、樹木の美しい姿が美術室いっぱいに影を落とし、私はふと、窓から見えるあの美しい樹木を描いたらどんなに素晴らしいか、と思った。

教室の台座は、林檎を選ぶことにして、木漏れ日の中に林檎を置いて見たらどうだろうか、よし、我ながらいいアイディアではないかと思ったのだった。

樹木をデッサンすることに夢中になった私は、林檎のことをすっかり忘れていた。


画は好きなわりには得意でないけれど、樹木だけは、いろいろの種類を現実に見なくても、思い浮かべて描くことができる。
人は好きな対象には、心を傾けることができるというように、私は葉っぱの詳細、木花、幹の姿の細やかな部分などを思い浮かべながら、緻密に描くことができる。




しばらくして、背中に視線を感じた。
ハッと我に返った私は、台座から選んだ静物を描く、授業本来を思い出し、大慌てで林檎を描きだした。

けれど、時は既に遅く、大慌てで下手くそな林檎を、描いた私に、

「君は小学校からやり直した方がいいな!」と、美術の先生の厳しいお叱り。

さらに追い打ちをかける無情な声で先生は、きつく言われた。
「大体、君のような生徒が、美術を選択したこと自体が間違ってる」
私の画は見るに堪えないと言われた。



美術コースには、Kさんという、大輪の薔薇のように、艶やかなクラスメイトがいた。
学年トップを競うような秀才、おまけに絵も上手い、運動神経も抜群、そして、薔薇の花のように美しい。

そんな彼女の周囲には、磁石に引き寄せられるように、大勢の人がいつも集まっていた。


先生に叱られながら、私がしまったと思った瞬間、「クスッ」と彼女から笑い声がした。

いつも場の中心にいて、臆することなく、輝くばかりの笑顔でいられたKさん。
影でしかなかった、自分とをつい、比べてしまっていた、あの頃。

こんな記憶は、もう忘れてしまったらば、どんなにか楽だろうかと思う。
なのに、どうも私は、こういった自分の過去に見え隠れする、時々の情けないことや恥ずかしいことを、ずっと覚えている性格のようらしい。




「だからあんたは、定期的に落ち込んでは、ウツウツするのよ!」
と、自分で自分に突っ込んでも、なんの解決にもならないのに。





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身代わりになってくれた、娘のお雛様

小さなころから、桃の節句が嫌いだった。
座敷いっぱいに毛氈を広げ、祖母と母が喜々として、箱から雛人形を出す。
覚えている限り、毎年、その準備は二月からもう始まっていた。

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3月1日が私の誕生日だということも、桃の節句の前には、あっけなく忘れ去られてしまう。
あと、二日、たったそれだけのことなのに、私の誕生日は、女の子の節句の前には、単に通り過ぎる日でしかない。


両親は私の姉、長女が生まれたときに、一家にお雛様を迎えることにした。
家には不釣り合いなほど、それは豪華なお雛だった。

姉の雛人形は、次女の私が生まれるまでの5年間は、姉一人だけのモノだった。
けれど、下に妹が3人もできると、それはいつしか、姉妹みんなのお雛様になっていくのは避けられない。


苦しい家計でやりくりしている家に、女の子が4人もいて、その子たちすべてに雛人形を与える経済的なゆとりなどなかった。



桃の節句になると、母は、特別なご馳走をこしらえてくれて、雛人形を据えた座敷には、いっとき、春の華やぎが広がっていた。

それでも、いつも桃のお節句は、姉が主役で、私たち妹はお客様。
座敷に据えられた雛人形は、私たち妹には、やはり、姉のモノ、というふうに思え、いつになく、畏まっていた。

姉は、雛人形を箱から出すのも、また仕舞うのも、他の妹たちには一切させなかった。
たぶん、意地悪でしたのではないと思う。
思わないけど、やはり、それはその場にいた私たちを、羨ましく、哀しく、切ない思いにさせるのだ。


月日は流れ、私に娘が授かった。
私はここぞとばかり、娘に分不相応なお雛を用意しようとした。

実家の父が、私の願いを聞きつけてくれて、遅くに授かった孫のために、豪華な雛人形を買ってくれた。


罰があたったのかもしれない。
豪華な雛を贈ってくれた父は、その年に脳梗塞に倒れ、赤ん坊だった最愛の娘までもが、長期入院になってしまったのだ。

雛は、淡島さんに奉納させていただき、縁切り、厄落としの身代わりになってもらうことになった。

淡島神社に雛を連れていくとき、端正なお顔の、お内裏様が泣いていた。

あれから二十数年が過ぎ、今の私には、なぜ母は、第一子である姉のためにそこまで立派な雛人形を用意したのか、分かるような気がする。

母は、娘を持ったよろこびというだけでなく、雛を買ってもらえなかった、自分自身の幼いころの切ない思いを投影したのだろう、私のように。






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3月3日、PM 12:30 加筆

とても古くから交流させていただいている、ネットの友人から、
ちぎり絵のお雛様をメールで送っていただきました。

友人は、今はネットから離れられていますが、
一年に一度の年賀状のやりとりと、こうして折々に、メールの交換をしています。
いつか、復帰できる日を願いつつ、画像をご紹介させていただきます。
先だって、ちぎり絵の世界では、有名な賞をいただいたそうです!

IMG_20170303_102055.jpg







【 家との想い出 】マルチーズのマミーが死んだ日

父は、犬が大好きだった。
家に来た仔はすべて、赤ん坊の頃から、大切に育て、可愛がっていた。
私が物心がついて、自分を取り巻く周囲に関心を向け始めたころには、もう家には数匹の犬が暮らしていた。

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ところが、とても哀しいことに、父の犬が長く生きたことは、一度もなかった。
どの仔も、短い命を終えてしまう。

父は、犬を鎖に繋ぐことはしなかった。
犬たちは、庭を自由に走り回り、飽きると、裏木戸と生垣の間の隙間から外に出て行く。

昔とはいえ、町家の前は車や人の往来が頻繁な所為か、外に出たことで事故に遭った子もいた。

父の愛情に反比例するかのように、歴代の犬は皆、短命だった。

ある日(私が、小学三年生の夏休み)、父方の従兄弟叔父が、これまで一度も見たこともないような子犬を連れて来た。
スピッツのように、ふさふさの真っ白な長い毛は柔らかく、クリクリ目玉の愛らしい男の子は、マルチーズという犬だった。


皆んなで話し合って、名前は、マミーと付けた。
短い命しか生きられないわが家で、マミーは三歳の誕生日を迎えることができた。

そして、私が六年生になったある日の夜、一人散歩から帰ってきたマミーが、私の足の周りをグルグルと走り回った。
いつもはそんなことはしないのに、よほど嬉しいのかと、私はマミーを抱き上げた。
マミーの口の端っこから、唾のような大量の泡が出てくる。
私はマミーを降ろすと、家に入りそのまま朝までぐっすりと眠った。

マミーが泡まで吹いて嬉しそうにしていたよと、眠る前に、姉に得意げに話した。
私は、本当に愚かな子どもだった。

翌朝、いつもの朝のように、台所に行くと、マミーの姿はなく、父は真っ赤な目をし、項垂れていた。
私を見ると、ポツンと一言、「マミーは死んだ」と。

マミーが前夜、泡を吹き出していたのは、猫いらず入りの毒まんじゅうを食べたからだったのだ。
さぞかし、苦しんだことだろう、私は、ごめんね、ごめんね、と言いながら大声で泣いた。



嬉しさと悲しさの、相反する心を教えてくれたマミー。
それ以来、実家では犬が暮らすことは二度となかった。

実家が無くなることで、記憶の彼方にあるいろんな想い出がよみがえり、その中にはマミーのような哀しい出来事もあった。
私たちが哀しいときは包むようにしてくれて、嬉しいときは、一緒に喜んでくれた、家とはそんなものかもしれない。







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これまで守り育ててくれて、ありがとう!!

私の実家の取り壊し日程が、大よそ決まった。
解体に取り掛かるのは、GW明けになるだろうという。
すぐにでも取り掛かることができると思った私たちは、肩透かしを食らった感が否めない。


工事担当者の人が言うには、家の周囲の道路が狭いことが一番の原因らしい。
あぁ、そうなのだ。
泉州地域の家々は町家といえども、実家のように敷地内は広く、庭も十分にあるから車を停めるスペースも充分に確保できる。

ところが、家の前の道は、私道がほとんどで、その幅と云えば、人二人が横並びに歩くのが、少し窮屈、というものなのだ。
敷地がいくら広く、駐車スペースがとれたとしても、その場所へは肝心の車が通行できない。
要するに、ガレージを作っても、何の意味もないということ。

これが、この地域を都市過疎化へと進ませる、一因でもある。
若い人たちが家を継ぐのを嫌がるのだ。

実家の跡取りである私の妹には、息子ばかり3人いる。
そして、それぞれが車を持っているから、家には数台の車を停めるスペースが要る。


昔と違い、家には数台の車があるのが多くなり、敷地内に駐車場を設けられない立地では、暮らしのニーズに対応できない。
だから、家を継いだ妹は、他所に新しく家を建てることにしたのだ。


縁側に座り、空を眺めると、あのころの小さな姉妹の声が聞こえるような気がする。

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自分が生まれ育った家というものは、子どもの日々の出来事、感情の起伏を丁寧に切り取ってみせてくれる。
祖父母や両親は、子どものやることを付かず離れず見守っている。

子どもはあるときは一人前として扱われ、冒険心に満ちた大きな気持ちになることができる。
いつでも、安全な場所に帰ることができる、という保証があるからだ。

守られている安心感は、子どもの自由な行動を可能にしてくれる。
転んだって、怪我をしたって、いつでも帰る家があり、そこには笑顔で迎えてくれる家族がいた、のだから。

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それらをすべて育み、包むようにしてくれていた、私のルーツのこの家に、今はただありがとう、という言葉を贈りたい。





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土日、祝日はコメント欄を閉じています。
ご伝言は、『NEW!メッセージボード』によろしくお願いいたします。m(._.)m

素敵な週末をお過ごしくださいね!






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