ゆりかごの歌

小さなお話に画を添えて、心がほっこりするようなブログを書いてみたい。
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意思の芽生え

実家の解体前に、神主さんにきていただき、お祓いをしていただいた。
今の神主さんは、私が知っている方ではなく、そのお顔をみていたら、唐突に思い出したことがある。

私は9歳、小学三年生になっていた。
その頃わが家は、赤貧とまではいかないけれど、貧しさに学用品を買う余裕などなかった。


何故貧しかったのか、それは末妹の入院費に充てるため、父の公務員としての薄給の大方は消えてしまうからだった。
家計の足しに、母は、小さなハンダゴテを使いブローチに煌びやかな石を取り付ける内職をしていた。

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学校から帰ると、台所先の土間からコテが接着剤を溶かす黒い煙が立ち上っていた。
じっと目を凝らしブローチを作る母の背中が、なぜか悲しかった。
新しいノートや色鉛筆が欲しいなど、その背中に言えなかった。

私は考えた。
なんとか学用品くらい自分で買えないだろうかと。
そこで思いついたのが、毛布畳みの仕事だった。

登下校で通る道沿いに、織物屋さんがあって、そこではいつもお姉さんたちが忙しそうに、
織りあがった毛布を畳んでは袋に入れていた。
あれをさせてください、と言おう。


口では言えないと思った私は、ノート一枚を破き、チラシを作った。
【 毛布畳みの仕事をさせてください! 】と、黒マジックで書き、目立つように、赤色で文字を太く色取った。

決行の日は、朝からドキドキして、勉強は上の空、給食も喉を通らない。
そんな私の心を知ってか知らずか、あっと言う間に下校時間になっていく。

意を決した私は、ランドセルにチラシが入っているのを確認すると、織物屋さんを目指した。

着くとすぐに、毛布畳みのお姉さんに、チラシを渡す。

「 えっ!誰が仕事するの? 」
「 私…です 」

「 家の人は知ってるん? 」
そうして、お姉さんたちは一斉に笑い出した。
「 まだ、ちいちゃいからもうちょっと大きなってから、おいで 」

それでも粘る私。
そうこうしているうちに、奥から誰かが出てきた。

薄ねずみ色の着物を着た、祖母と同じくらいのおばあちゃんだった。


話の結末を書くと、そのおばあちゃんの好意で、私は毛布畳みではなく、赤ちゃんのお守りをさせてもらうことになったのだ。
このお宅で私は、トシちゃんと言う名の赤ちゃんのお守りを、週に二回、3ヶ月続けた。

そして、初めてもらったアルバイト代は、なんと800円。
それは9歳の私には、大金だった。


嬉しくて、早く帰って母に渡したかった。

それをはじめ思いついたとき、とてもいい考えだと思った。
まさか、母が泣き出すとは、ちいちゃい私には考えも及ばなかった。
良かれと思ってしたことではあったけど、 親戚にも叱られて、父や母には情けない想いをさせてしまった。

けれど後になり、「 賢い子や、しっかりしてる、お母ちゃんかてほんまはうれしかったんやで、あんたが男の子に生まれたらなあ 」
と祖母が笑いながら言ってくれた。

それでも、良かれと思ってしたことが、結果が良いとは限らないのだと、知ったのだった。






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失敗に終わった初めてのお使い

メリケン粉って、ご存じでしょうか。
メリケン粉とは、今でいう小麦粉のことらしいと、最近知りました。

調べると、文明開花期、当時の人々には英語の「アメリカン」が「メリケン」と聞こえたということから、 「メリケン粉」と呼ばれるようになったらしいのです。



小さなころ、私はどうしてもメリケン粉という言葉が言えなかった。
母にメリケン粉を買ってきて、そういわれるときは、ほんとうに恐怖の一瞬だった。


失敗しないよう、何度も「メリケン粉、メリケン粉」と練習して店に行っても、
お店の人の顔を見た途端に、「メリコンコ!下さい!」と言ってしまう。

子供がおつかいをする時 店に行くまでは何を買うのか覚えているが、店に着いたら買う物を忘れてしまう。
それは、お店に着いたという強い達成感が一応、成し遂げられて、他のことは、忘れてしまうということらしい。

ともあれ私は、言った後に、あぁまた失敗したという自責の念と、恥ずかしさで、八百屋さんや魚屋さんにはいいけど、乾物屋さんにお使いに行くのが嫌で堪らなかった。

だから、小さなころは、買い物に行こうとする母に、「メリケン粉がないみたいやで」と言うこともあった。


娘が5歳くらいだったろうか。
赤ん坊のころからずっと入院していた娘が、寛解を迎え、退院できるようになった。
帰宅した娘が一番に、してみたい、と言ったのは駄菓子屋さんに行くことだった。

院内では、盆踊りや縁日、院内学級、映画上映、クリスマス、などはあっても、駄菓子屋さんはさすがになかった。

絵本で観る駄菓子屋さんに、行ってみたいな、お菓子を食べてみたいなと、想像していたのだろう。


里には当時、村唯一のお店 『 万屋さん 』 があった。

小麦粉(メリケン粉)、日用品、牛乳やパンなどの他に村の子どもたちのために、おばさんは駄菓子を置いてくれていた。

娘は、初めて、小遣い銭100円を握りしめて万屋さんに行こうと、峠道をとことこと降りていく。
後姿を見ながら、なぜか泣けてきて、涙が止まらない。

娘にこんな日がやってくるとは、そしてお小遣いをもってお菓子を買いに行けるとは。
いろんな思いが胸に溢れてきた。

5歳の娘は、『 サ行 』が上手に言えなかった。
お魚食べる、は、「おたたなたべう」、というふうで、ちょっと舌たらずだった。

万屋さんの駄菓子の中に、ラムネ味のソーダー菓子、一袋30円のものがあった。

娘は、「ソーダーのお菓子ください」と家で何度も練習をしてから出かけた。

ほどなくして帰宅した娘は、泣きべそをかいている。
とことこと弾むような足取りで出かけた娘が、とぼとぼと項垂れて帰ってきた。

「どうしたの?買えたん?」そう訊くと、首を振る。

ソーダーのお菓子が言えなくて、「トーダーのおかししくだたい」、になってしまったのだ。

万屋のおばさんも、きっと何度も訊ねてくれたと思う。
けど、娘にとっては、人生初の買い物、しかも、憧れの駄菓子屋さん。

そこに行けた、そのことの達成感だけで、もう胸がいっぱいいっぱいだったのだろう。
小さなころの自分と娘が重なって、胸に熱いものがこみあげてきた日だった。






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母の形見の洋裁鋏、の続き

そして、その日以来、私たちのままごと社会に、アメリカ社会が取り入れられた。
お惣菜をこしらるために八百屋さんに行くことはなくなつて、魚屋さんで話す会話もなくなり、私は寂しさを感じ始めた。

会話に聞きかじりのカタカナ語が使われ、「キャサリン、今日もキッチンでケーキを焼く?」
そんな会話が交わされるようになっていた。

私以外の女の子たちは、いつしか自分たちの分身の名前を、メアリー、マーガレット、スージー、エミリーに変えていた。
けれど、私は頑として、きこちゃんと言い続けた。

気がつくと、私ときこちゃんは、余所者扱いを受けるようになっていた。



私は、キャサリンを憎んだ。
キャサリンさえいなければ、きこと私は、元のままごと社会で仲良く出来るのに・・・・と。




ある日、くみちゃんのお父さんが入院したことで、くみちゃんとキャサリンをわが家で預かることになった。
おばさんは付き添いで、二日間、留守にするということだった。

くみちゃんは、子供部屋とも呼べない、わが家の襖で仕切られただけの、私と妹の共同部屋で眠ることになった。

片時もキャサリンを手から離さず、布団に入っても、自分の横に一緒に並べて寝るくみちゃんとキャサリンが羨ましかった。
嫉妬と言いかえてもいいと思う。

人を羨む感情は、心にはまったくよくない感情を生み出した。

あろうことか、私は、眠っているキャサリンを、くみちゃんから強引に奪うと、その黄金色に波打つ豊かな髪を、ザクザクと、切った。



あとの記憶は、スローモーションビデオのように、頭の中をぐるぐる回る。

寝ていたはずのくみちゃんが、そのとき目を覚ました。
私の手にあるキャサリンを見る。

キャサリンに起きたことを理解さかたくみちゃんは、ギャァーと悲鳴をあげながら泣き出した。
と同時に、母が子供部屋に入って来た。
その場の様子を瞬時に見て取った母は、泣きやまないくみちゃんと、ざんぎり頭のキャサリンを、居間に連れて行った。

次に、子ども部屋に戻ってきた母は、黙って私の顔をじっと見る。

母の無言の圧力が私は怖かった。
いつも笑い、冗談をいう母の顔ではなかったけど、母の目は泣いていた。

母の涙を見た私は、ハットした。
そしてオロオロと、どうしたらいいかわからずに、ただじっとして沙汰を待っていたように思う。


何も言わない母は、しばらくそうしてから立ち上がると、どこからか鋏を持ってきた。

そうして私の手に鋏を握らせると、一言、「これで自分の髪を切ってごらん」と言ったのだ。

hasami.jpg


堪らず、私は、くみちゃんのように大声で泣いた。
泣きじゃくりながら、ごめんなさい、ごめんなさいと言い続けていた。

自分の髪を切ることが、私には怖くて出来なかった。
それ以来、私は母を哀しくさせることは、絶対にしないと心に誓い、母を泣かせることは、悪いことだと思った。

母が死んでしばらくして、姉妹で形見の相談をした。
「 挟が欲しい 」、そういう私に長女は、「 えっそんなんでいいん?」と怪訝な顔で見た。

哀しい記憶も一緒に残るからこそ、母の挟はずっと鮮明にあの頃の自分を一緒に連れてきてくれる。
鋏でよかった、私には何より必要だったのだと、思うのだ。




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母の形見の洋裁鋏

今年のGWはどこへも出かけないで、家の片付けに追われている。
足の手術の後遺症で、しゃがんだりかがんだりできない私は、日ごろ一生懸命働いている夫、娘に託すしかなく、身が縮こまる想いになる。

せめてもと、雑巾を縫ったり、娘のお弁当袋を縫ったりしてやり過ごしている。


布を裁つために、母の形見の洋裁鋏を手にしていると、つい、昔の哀しい記憶が顔を出してしまう。

hasami.jpg


私の母は、物静かな人で、大きな声で子どもを叱ったことはない。
他の姉妹は一度もなかったように思うけど、私だけはそんな母に、たった一度だけ叱られたことがある。
思い出すと、今も胸がキュンと痛むくらい哀しい記憶として残っている。



今から、五十年くらい前になるだろか。

そのころ、女の子たちはままごと遊びで使うお人形を、自分の分身として大切に持っていた。
お母さん手製のお人形、商店で買ったものなど。
それぞれ思い入れのある、大切なお人形は、ままごとの架空社会で、自身の代わりをするのだ。

私も母に作ってもらった和風のお人形を持っていた。
黒い色の毛糸の髪は、漆黒の黒髪で、市松さんのような顔をしていた。

出来上がり時は着物を着ていたが、私の要望を聞き入れた母は、コットンのワンピースを縫って着せてくれた。
苺模様の可愛い生地で、そのお人形によく似合った。

私は自分の分身に、きこちゃんと名付けていた。


私たちのままごと社会にある日、余所者が加わることになった。
東京っ子の、その子の家は、地元の私やその他の女の子の家とは違い、台所をキッチン、居間をリビングと呼ぶのが似合いそうな、洒落た家だった。

古ぼけた“しころ作り”の家の内装とは違い、個室がある。
個室は廊下とドアで仕切られていた。

東京から越してきた、その子はくみちゃんという名だった。

くみちゃんのお母さんは、真っ白いサロンエプロンを掛けていて、テレビドラマで観る、憧れのアメリカ人のママのようだった。

その頃、私の記憶にあるお母さんたちは、白いかっぽう着を着けているのが普通だったのだ。

くみちゃんは、洒落たお母さんに付き添われて、
私たちのままごと社会に臆することなく、加わってきた。

もちろん、手には、分身を抱いていた。

東京っ子が手にしていたお人形さんは、クルクルとカールしたウェービーヘアを、ポニーテールにしていた。
睫毛は、目の上で収穫前のブドウの房のように、重そうに垂れていて、抱いているとき、その青水晶のような目はぱっちりと開き、
横に抱っこすると、ブドウ房状の睫毛が目を覆う。

名前は、キャサリン。

キャサリンとくみちゃんは、一瞬にして、ままごと社会の女王さまの地位を勝ち取った。

『この記事は、明日に続きます』



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58歳になった、古きアメリカの友とのお喋り

【今日は、長文の記事になります。ごめんなさい!】<(_ _)>

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高校生の頃、私は、東京でアメリカ人のお宅に下宿をしていた。
実のところ、下宿というより、お手伝いつきという条件で、部屋代、食費も無料、というものだった。

お手伝いの実情は、その家のおばあさん(日本語を全く理解していない、イタリア系のアメリカ人)のお世話をする、という名目がついていた。

「アメリカ人のお宅で、おばあさんの面倒を看る代わりに、住まいと食べ物を提供してくれるという話がある看るというより、見るほうが正しいかな。」

と、当時の担任の先生が、私にどうかと言ってくださった。



ジョンさんというイタリア系アメリカ人のご主人、日米ハーフの奥さんリンコナさん、男の子ばかりの四人兄弟、ご主人のお母さん、そんな家族構成だった。

そこに、日本人のメイドさんが二人、メイド頭の中国人の張さんがいた。

元・男爵家の屋敷だったという広大な敷地に、家はあった。
正面の門をくぐり、プライベートガーデンに回ると、そこには、テレビドラマで観たような、アメリカの家庭そのものがあった。
一面の芝生、芝生を刈る機械、今でいうスプリンクラーらしき水道栓、放し飼いのシェパード2頭。
そんなこともあんなことも、田舎育ちの私には、日々驚きの連続。

中でも、もっとも驚いたのは、家の中に、音楽室と図書室があったことだった。
小中学校にある、あのような教室をもっと大きく立派にしたようなといえばいいのか。


図書室の庭の向こうに、おばあさんの居室、と、私が住むことになる小さな部屋があった。

観音開きの長い窓から、おばあさんの部屋に入ると、すえたような匂いというのか、ムッと鼻につく異臭がする。
目の前に広がる青々とした芝生と対照的な、その部屋の、重苦しい空気に気が滅入ってしまったことを記憶している。

天蓋付きの巨大なベッドに、小柄なおばあさんが眠っていた。
部屋に居る不審者の私に気づくこともなく、寝息を立てている。
落ち窪んだ頬、皺くちゃに干乾びた皮膚が張付いただけの、腕。

恐らく、おばあさんは脳疾患で、寝たっきりだったのかもしれない。

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それから、その隣には、私がこれから住まう部屋があった。

そこは、4.5畳くらいの小さな部屋で、窓際に机と椅子、壁にくっついたベッド、引き出しが4つの整理ダンス。
これらが、16歳の私のお城だった。

お宅の四人の男の子のうち、三男のブルースと私は同学年。

しかし、その初対面は最悪なものだった。

「お前ーー!ちっちゃいな!さすが日本人だよ!」

江戸っ子のように、べらんめ調でいきなり捲し立てられ、私は、鳩が豆鉄砲状態。


肝心のアルバイトはたったの一日もすることはなく、おばあさんには毎日のように、通いの看護の方が来てお世話をしていた。


結局、三年間も無料で住まわせていただいたことになるのだ。


ブルースとは今も、メールやカードの交換で、親交が続いている。
英語圏の国に住みながらも、日本語が達者なブルースは、当時はなぜか、日本人を毛嫌いしていた。

あのころはそのワケが分からず、何かと私に辛くあたるブルースが苦手だった。
それでも、お宅で暮らした三年間は私に、知らずのうちに影響を与えたような気がしている。


今の私にはブルースの、あの頃の気持ちが理解できる。

末弟のポールはお父さんの遺伝子なのか、高校一年生時で、身長は180センチを優に超えていた。
反面、ブルースといえば、日本人の母型の遺伝子を受け継いだのか、165センチあったかどうか。

弟より背が低いのは、自分にわずかでも流れている、日本人の血の所為だと、恨んでいたのだろうと思う。

そんなブルースも、好々爺になり角が取れてきた。
こうしてネット普及のおかげで、たまには、リアルタイムにチャットをすることもある。

遠く離れたアメリカと、大阪の片田舎のシニア同士が、子どものようにチャットに興じる。
日本語が達者なブルースは、仕事をしながら、学生援護協会のようなところで、日本からの留学生のために、通訳のボランティアをしている。



日本語が私より達者なくせに、ブルースはいまもって、私の名前の発音が出来ない。
ちなみに、今、私が習っている英会話教室のB先生も、発音できません。


こんな歳から、英会話を習うの?
と、たまに訊かれる。
その理由の一つには、ブルースが時折、話す英語が聞き取れないからもある。

それをブルースに、皮肉られるのが悔しい私。


そのくせ、ブルースときたら、彼に贈った、誕生日プレゼントのお礼を言うのに、
「ふじみーー、ありがとう!可愛いストラップじゃん!」

と、相変わらず人の名前が言えず、照れ笑いでごまかす。
憎めないブルースなのだ。





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