意外と知られていない【 クラッシュ症候群 】

わが家は今、耐震補強工事を進めている。(実家もそうできたらよかったのに・・・・・・)
昨日は、耐震専門の設計士さんが来られ、自宅内を一通りみていただき、補強箇所を計算し見積額を算出するようにしていただいた。

-----------------------------------------------------------------------
にほんブログ村 シニア日記ブログ 女性シニアへ
にほんブログ村

応援、よろしくお願いいたします(__)

-----------------------------------------------------------------------

来るか来ないか分からない地球の所作、巨大地震に対し、大抵のお宅は、見積額を聞き、工事を断念されるらしい。
わが家も、里の住まいに住んでいるのなら、恐らく、こういう考えには至らなかったかもしれない。

もちろん里の家のほうが年数はかなり古く、補強など及びもつかないと思う。
けど、私たちは今後もずっと、ここ、町の住まいを終の棲家とすることに決めた。


まず市の無料耐震診断に申し込み、その結果が出たのが、一月の中旬。
予想はしていたけど、えっ!と驚くような耐震診断の結果だった。

即ち、わが家は【震度6弱で、倒壊の可能性あり】、という診断結果に、詳しい説明がついていた。


あの阪神淡路大震災で、クローズアップされた二次災害に、『クラッシュ症候群』がある。

一旦は命が助かったにも関わらず、救出後、何時間後には亡くなってしまう方が続出したことから発覚した。

─引用─
1995年1月17日の阪神・淡路大震災でがれきの下に埋まった状態から救出された人が数時間経った後に症状が急に悪化し、死亡した例は多数に上る。
これが俗に「クラッシュ症候群」(別名:クラッシュシンドローム・挫滅症候群)と呼ばれるもので、この時はまだ一般に広く認知されておらず、概算の記録ではあるが、少なくとも372人が発症し、そのうち50人が亡くなっている。
これを契機に、日本ではクラッシュ症候群が認知されるようになり、災害医療のあり方も大きく変わった。


と、安心安全情報のウエブサイトに書かれている。

阪神淡路大震災では、私の叔母も被災した。
新築したばかりの住宅が倒壊し、一階に寝ていた叔母は、圧死した。

そしてその後に、叔母の死を通して、クラッシュ症候群のことを聞いたのだ。

人間は、身体の一部分だけでも、長時間(3時間くらい)圧迫されると、血流が途絶える。
命からがら救済されて、停止していた血流が再開したときに、圧迫していたときに細胞内に作られた毒素が、一気に全身を駆け巡り、ついには多臓器不全に陥り、命を落とす。


耐震補強工事をすることを決めたのは、あのときの叔母の死の原因を聞いた、それが一番にある。
少なくとも、叔母の死が教えてくれたことを無駄にはしたくない。
家は、一度目の揺れに耐えることができたら、少なくとも逃げることはできる、かもしれない。

それにわが家はバス通りに面していて、倒壊してしまうと、ご近所の方々が逃げる退路を絶ってしまうことになり兼ねない。

耐震設計士さんの帰り間際に、「補強工事費の概算だけでもいいので、教えてください」と、訊いてみた。
もちろん、補強工事のついでにリフォームもお願いしたからだけど、市の助成金を、はるかにはるかに上回るその金額に、びっくり。





-----------------------------------------------------------------------
いつもご訪問いただき、ありがとうございます!
ブログランキングに参加しています。

文字を↓↓↓クリックしていただくと、うれしいです。よろしくお願い致します。

にほんブログ村 女性シニア

-----------------------------------------------------------------------

今日は、コメント欄は閉じさせていただいています。

ご伝言は、24時間オープンの『NEW!メッセージボード』
によろしくお願い致します。





スポンサーサイト

脳卒中患者に、拘束衣 (身体の自由を奪う) を着せるということ

父が死んで、今日でちょうど25年が過ぎました。
この時期はやはり、何かと父を思い出してしまい、ブログに書く内容が闘病記になります。
読まれて気分が、沈んでしまったら、ごめなさい。

-----------------------------------------------------------------------
にほんブログ村 シニア日記ブログ 女性シニアへ
にほんブログ村

応援、よろしくお願いいたします(__)

-----------------------------------------------------------------------

二度目の脳梗塞発作で、半身麻痺になった父は、所謂、老人病院というところに搬送された。
その時、父は64歳。
老人とも言えるし、まだ若いとも言える年齢だった。

先だって書いたブログの続きになるけれど、何故、父が拘束衣を着せられたのか、長い年月が過ぎた今も、私は時折、考えることがある。



今とあの頃では、看護や介護に携わる人々の意識は違うかもしれない。
けれど、父が搬送された病院では、一室に12名の患者を押し込み、システマティックに介護していた。


何故、突然、家族にも知らせず、病院は父に拘束衣を着せたのか。
看護ヘルパーさんが、父の隣の患者のオムツ交換の際に、たまたま、父はお尻がどうにも痒く、手を差し伸べて掻いた、と理由を訊く私に、途切れ途切れの言葉で説明した。

システマティックということなら、人間でなくともロボットに出来るはず。
時間から時間へとオートメーション化された介護では、患者ひとりひとりの容態など目がいくはずもなく、みんな十羽一絡げの介護しかしない。
お腹をこわしていようが、時間が来ないとおしめを換えることはしない、いいや、出来ないのだ。それがシステマティックな中での規則だから。

病院側の規則に従って行う介護の中の一つに、『下半身に手を自分でやる患者は痴呆』という条項があったのだろうと、思う。



完全看護の謳い文句の陰には、このような現実がある。
患者は、ご飯が盛られたお椀に、副菜も薬も、一緒くたに入れられグチャグチャとかき混ぜた、【餌】を無理やりスプーンで口に入れられる。


むせて涙が出たら、そこで食事は切り上げ、食器はさっさと下げられる。
背中を撫り、大丈夫、との声掛けすらしない。
その間、彼女らは一言も、口を利かない。

そして、ちらっと自分の手首の時計を見る。


私は、病院側から「ご家族の方は頻繁に来ないでください」と抗議の声を無視し、転院するまで、毎日毎日、父のベッドサイドに通い続けた。

そして、父の食事の世話をし、不自由ながら歩けた父をトイレまで一緒に付き添い、私が帰ったあとは、ベッド横のポータブルトイレを使用できるように、病院側と争い、権利を勝ちとったのだ。

病院というところは、雑多な細菌やウイルスが棲む温床であるからと、私の身を案じてくれるヘルパーさんもいた。



詰まる所、介護も看護もいくらシステマティックで且つ、オートメーション化されたものであれ、そこに携わる人如何によるものなんだろうと思うのだ。

私たち患者の家族からすれば、酷い、としか言いようのないヘルパーさんも、ご自分の家族が患者になれば、その時の私と同じように、なんて酷い介護なのだ、と感じるはず。


老人介護の現場では、患者ひとりひとりに心と目で向き合うことは、出来ないだろうなと、今は思うのだ。
幸いに、父は伝手を頼り、この病院から普通の病院に転院出来た。

けれどもし、あのまま老人病院に入院し、拘束衣を着けたままだったら、どうなっていただろう。
いくら半身麻痺とはいえ、人は自分の手から食事をし、咀嚼する、そして、排泄も介護の手を借りることなく自力で出来る、それが、生きていると言えるのではないだろうか。




-----------------------------------------------------------------------
いつもご訪問いただき、ありがとうございます!
ブログランキングに参加しています。

文字を↓↓↓クリックしていただくと、うれしいです。よろしくお願い致します。

にほんブログ村 女性シニア

-----------------------------------------------------------------------















【 人は死ぬから生きられる 】 脳科学者と、禅僧の話

アハ体験でお馴染みの茂木健一、禅僧の南直哉、両氏の対談形式で書かれている本を読みました。
「 人は死ぬから生きられる 」と結論付けられた、死についての本になります。

-----------------------------------------------------------------------
にほんブログ村 女性シニア
-----------------------------------------------------------------------

img_0.jpg

方や脳科学者、もうお一方は、禅問答の高僧であり、このお二人が問答形式で、死について語る。
これは面白いだろうと思いつつ、本を読み進めた。

難解な言葉や、漢字ばかりで書かれているかと思われるだろうが、とんでもない。
とても分かりやすく、死生観ともいえない、知恵者お二人の雑談めいた本だった。

けど、深い、とても頷ける内容で、久しぶりに本を読みながら、心が高揚してきた。

我々は何処から来て、何処に行こうとしているのか、進化の神は、我々を何処へ誘おうとしているのか、と多くの人が考えるように、私も命の正体を知りたい。

この本は、死について両者が問いかける禅問答のような内容になっている。

人は、生まれおちた瞬間、この世に生を受けた瞬間から、死への道を歩いている。
ただ気付かないようにしているのか、考えないようにしているのか。

大体は日本人は死生観や、死の話を日常レベルですることはあまりしないような気がする。
そもそも、喪中のお宅の玄関先に、”忌” と薄墨で書いた紙を貼るのはどうしてなのか、私は子どもの頃から不思議でしょうがなかった。
死はあくまで、忌み嫌う、忌、なのだろうか。



命の中の死ぬということに於いて、本来は普通に、家族間でも話し合うべきなのではなかと思っていた。

では、私たちが、死に付いて話すときはどんな場合だろう。
日常の生活で死ぬことを話す事はあるだろうか。

死はある日突然訪れるにしても、または、末期癌の患者のように、余命を知る形でとしても、死を恐れるのではなく、死を普通に捉えられたらと思っているから、このような本に惹きつけられるのかもしれないけど




脳科学者と禅僧という組み合わせの対談は興味深いし、その期待を裏切らない内容になっている。
特に南さんが仏教から死生を語る視点は、強く心を揺さぶられる。


「死を恐れない自分になろうとなどと、思わなくてもよい」
畏れおののき、苦しみ、そして、たどり着く先に、見えるものがあるのだと。

方や脳科学者は、サードマン(第三者か?)なる存在が、人の脳には組み込まれている、という。
死に行く人は、臨終の間際まで苦しんだにしろ、際の際に、ふと、顔が安らぎ口元には笑みさえ浮かべる。

死に行く人は、サードマンに守られ、次の世界へと誘われる。
まさに、サードマンは命に組み込まれた、最後の最高の麻薬かもしれないと思った。

本の中で脳科学が詳らかにした、サードマンの姿を想像してみた。
病に伏し死を迎える私に、サードマンが手を差し伸べる。
なんと私のサードマンは、マイケル・ジェイフォックスの面差しをした、美青年だったのだ。

死を安らかに迎えるための存在が、願わくば、ハンサムな青年でありますようにと祈りつつ、本を閉じた。





----------------------------------------------------------------------
いつもご訪問をありがとうございます!

ブログランキングに参加しています。
青文字をクリック↓↓↓していただけると、嬉しいです。
よろしくお願い致します。
にほんブログ村 定年後の暮らし
-----------------------------------------------------------------------
これからも、コメントボードは不定期に表示・非表示になるかと思われます。
ですから、今後は、FCブログ内のコメント欄を表示・非表示に分けて、使おうと思います。

これまで、コメントボードのたくさんの言葉を寄せてくださって、感謝します。

尚、『NEWメッセージボード』に関してましては、このままオープンにさせていただきますので、
お気軽に、足跡を残してくださると、うれしく思います。

よろしく、お願い致します。




脳卒中で倒れた父の看護の中で

冬場に多い突然死には、血管系の病気が多いらしい。
血管系といえば、まず、脳卒中が思い当たる。
わたしの父も、脳卒中患者だった。

にほんブログ村 小さな暮らし
-----------------------------------------------------------------------
けれど、たった一度の発作で亡くなってしまう突然死ではなく、これは運が良かったと言えるのかもしれない。
ただ、脳卒中というものは、身体の運動機能が麻痺したり、発作の場所によっては、言語障害が出たりするのが厄介だろうか。

2度目の発作で、父は半身麻痺になってしまった。
お洒落だった父は、入院先の病院では、病衣の上からヨダレ掛けをぶら下げられるようになった。
嚥下中枢の麻痺により、食物がむせてしまい、うまく飲み込めない。
病衣を汚すという理由で、ヨダレ掛けを付けると、看護ヘルパーさんは私たちに説明した。

そこは、家族の付き添いができないシステムで、父のケアをしていただいている、身としては何も言えない。



ある日、定刻に私が面会に行くと、父が哀しそうな目をして私を見た。
そして、掛布団の上から自分のお腹あたりを叩くようにした。

私は、不思議に思い、父の掛布団をはぐった。
なんと、父はいつもの病衣ではなく、前面に鍵付きのファスナーで開閉する、一見、パジャマのような衣類を着せられていた。

それは、拘束衣といい、痴ほう症の患者などに着せ、文字通り患者本人の生理的な欲求、意志を拘束するための衣類なのだ。
パジャマのように見えるが、上下に分かれることなく、胸から太もも付近あたりまで、一本のファスナーで繋がっている。
そして、ちょうどお臍あたりに錠前が付いていて、健常者であれ決して一人では脱ぎ着できるものではない。


それを見た瞬間、これまでの病院側の不適切な応対、人を人とも思わない不親切な介護に、我慢していた私の堪忍袋が切れた。


すぐさま詰所に行き、婦長さんに断固として抗議をする。
「あのね、お宅のお父さんがオムツを触るので、仕方がないからした処置ですよ」と弁明した。

オートメーション化された介護の現場では、人を人と思うことはない。
父のように頭がまだ、まともな患者は、何か言いたい、けれど言ってはいけない、と分かっているのだ。

結局、父は伝手を頼り、転院することができたけれど、その病院を出る間際までの約一週間、拘束衣が脱げることはなかった。








-----------------------------------------------------------------------
いつもご訪問にあたたかいコメント、クリックをありがとうございます!
ブログランキングに参加しています。

文字をクリック、↓↓↓お願い致します。
にほんブログ村 女性シニア
-----------------------------------------------------------------------

※お断り&お知らせ
休日ははコメントボードを閉じさせていただいています。

尚、『NEWメッセージボード』は、そのまま開けております。

こちらは、レスはありませんが、ご伝言ボードとしてご利用くださると有難いです。
どうぞ、よろしくお願いいたします。_(_^_)_











脳卒中に倒れた、父の介護

もう二十年以上になるだろうか、脳卒中に倒れた父の介護を始めた当初は、バリアフリーも整っていない家でレンタルの介護ベッドを使用し、その横にはポータブルトイレを置くだけのスタートだった。

古い家屋の床は畳敷きのまま、トイレもお風呂場も、洗面所だって、バリアフリーなどとは程遠い。
また、介護保険制度もなく、公的な援助を受けることは、難しいことだった。

-----------------------------------------------------------------------
にほんブログ村 小さな暮らし
-----------------------------------------------------------------------
父は、二度目の梗塞発作で、完全に右半身麻痺になってしまう。

利き手が使えないことは、食事、排せつなどの日常の様々な動作に不便を伴う。
水道栓にはタオルを巻くと、左手でも使用可能になると、作業療法士さんに教えてもらい、練習の末できるようになった。

食事はスプーンを持った左手でも食べやすいように細かく刻み、滑り止め付の食器に盛り付けることでこれもまた、何とかできるように、父もよく耐え、頑張った。

こうして父の自宅介護がスタートした。

長女と私は、自分の親の介護もできず、三女に任せっぱなし、たまに実家に戻っても、病か麻痺の所為か、若干、性格の変わった父に、きつくあたってしまう。

意思の疎通が図りにくくなった父はこれまでになく、怒りっぽくなってしまった。
穏やかで物静かだった父を、病が別の人格に変えてしまったようだった。




本当に情けない思いでいたのは父だろうに、突然、身体が不自由になり、今まで出来ていたことが出来なくなる、そんな自分に腹立たしいのは、父のほうであるのに・・・・・・。

帰りの車の中でワンワン泣きながら、たまにしか行けないのに、なぜ、私は父に優しくできないのだろう、と、自己嫌悪に陥り、自分を責めることしかできなかったあの頃。

介護とは、極端に言えば、親の命が尽きるときが、終わり。
それは先の見えない暗闇を彷徨っているような感覚に捉われる。


そんなある日、父の面倒を看ていた三女が、深夜に電話をしてきた。
家の電話からだと父に聞かれてしまうと、公衆電話からだった。


「もうあかん、もうだめやわ」と泣きながら繰り返す妹。
昼夜転倒していた父は、みんなが寝静まったころに、何度も妹を呼ぶ合図を発信する。
妹が起きないと、ベッドサイドのスチールの枠を、『コンコンと指先で鳴らす』のだ。

真夜中の家に、コンコンという音が鳴り響く。
暗く深い、介護という深海に沈んだままの妹に、コンコンという音は耐えられないものだったろう。

電話は、介護の限界にきていた、三女のSOSだった。
女ばかりの姉妹の長女と私は、跡取りだからと三女に、父の介護をある意味、押し付けた。


私は、三女の叫びから、耳を塞ぎ、聞こえないふりをしてきた。
電話の向こうの三女の悲痛な声を聞くまで、ずっと。

そうして、父の娘である私たちは話し合い、父を有料の老人ホームに入居してもらうことにしたのだ。
最近、老々介護や年老いた親の介護のために、仕事を辞めてしまう話しを聞く。

「 どうしたら、みんな疲れずに介護に当たることが出来るのだろう 」、そのころはそんなことを想う日々だった。




-----------------------------------------------------------------------
いつもご訪問にあたたかいコメント、クリックをありがとうございます!
ブログランキングに参加しています。

文字をクリック、↓↓↓お願い致します。
にほんブログ村 女性シニア
-----------------------------------------------------------------------

※休日は、コメントボードを閉じさせていただいています。

尚、『NEWメッセージボード』は、そのまま開けております。
こちらは、レスはありませんが、ご伝言ボードとしてご利用くださると有難いです。
どうぞ、よろしくお願いいたします。_(_^_)_






このカテゴリーに該当する記事はありません。