【魔使いの弟子】最終巻を読み終えて

長く愛読してきた、イギリスのYA作家、ジョゼフ・ディレニテイーの【魔使いシリーズ】に、一応の区切りがついた。
あまりにも、私の想像とかけ離れていた結末に、ショックでしばらく、茫然としてしまった。

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このシリーズは、本国のイギリスで続編が出版されている。
最終章は終わっても、この続きがまた翻訳されて、日本にも紹介される日が来るだろう・・・・・・か。

魔使いは、その地方の魔の者たち悪霊や幽霊などから人々を守る任に就いている。
平たくいえば、悪魔払いのような役割だ。

リヒューム、ボガートなどと、聞きなれない闇の者たちの名前が、本には何度も登場する。
ファンタジーの世界では、そのネーミングも目新しく、私には新鮮だった。

彼らは、闇(悪)と闘う故に、本来なら感謝されるべきところを人々からは恐れられ、忌み嫌われる。

お金儲けもできず、自分たちが信ずる、光(善)の世界のために闘うのだ。

この本で私は、善と悪について考えざるをえなかった。
初めにも書いたけれど、簡単に言うと、私の想像していた結末にはならなかった。

私は典型的な、勧善懲悪を想像していた(というより、そうなってほしいという願望か?)。
続きを書くためには、悪を完全に滅ぼすわけにはいかなったのだろうけど。

作者のジョゼフ・ディレニテイーさんが書きたかったのは、必要悪についてではないのだろうか。
最終章を読んで心に強く残ったのは、善と悪と、必要悪だった。

地球は、自分自身の内に、善と悪を住まわせている。
そして、内なる中で善と悪を競わせ、ほんのちょっぴり、善が勝るように、自らの意思でしていると、常々私は思っている。

それが、即ち必要悪なんだろうと思う。

魔使いシリーズを読んでいて、そのことをいつも感じていた。
なぜ、善だけではダメなのか、悪が必要なのか。

そこが、最終章では曖昧になっていたように思う。
続編では、そこを書くのだろうか。

それにしても、愛読書と別れる辛さは堪える、早く続編を日本でも出版してほしい!






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本当にありがとうございました。
読みながら、心が慰めらて、気持ちが和らぎました。






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一頭のハスキー犬の死に、思うこと

怠け者に徹する手始めに、昨日の日曜日はダラダラと本を読んで過ごすことにした。
最小限の家事を済ませ、ベッドを温かくして、寝転び読書をしようと思ったのだ。

ベッドを居心地よく整えていたら、ドタドタと階段を駆け下りてくる足音がした。


慌しく、娘が部屋に入って来て、

「お母さん向きのエッセイがあるよ!」と、娘の手には一冊の本があった。
薦めてくれたのは、ハスキー犬のグレイのことを書いた伊勢英子さんのエッセイ。

文庫になったこの本の末尾には、伊勢さん一家にハスキー犬の、グレイがやってきて、わずか4年後には、悪性の進行ガンで死んだと書かれている。



娘が9歳のときに、我が家に迎えた愛犬のプリンは15年を生き、昨年10月風が吹く寒い日に死んだ。
12歳のころだった、長生き犬の仲間入りを果たすことができたと喜ぶ反面、いつか別れが来るのだなと、漠然と思うようになったことを、唐突に思い出した。

p-12.jpg
12歳のころのプリン。


家族に愛され、家族のために生きた大型のハスキー犬グレイは、臨終の間際は激しい痛みの発作に苦しむ。
その姿が、プリンと重なって、哀しみで胸がつまる。

もうやめて!楽にしてやりたい、グレイが可哀想で堪らなく、本を閉じそうにもなった。

犬として生まれたグレイには、【 時の観念も死への不安もないのだ 】

【 時は、人間が作り出したもの、犬は、今日、自分が死ぬかも分からないけど、いつもと変わらず生きていられるのです】

伊勢さんは本の中にそう書くことで、グレイの死を受け止めようとされていた。

そうなのだ、犬と人間の感情の違いは、複雑と単純で表すことができるかも知れない。
私たちは、どうしても人間目線で、犬のことを考え、思いやり、思い込んでしまう。



ペットロスなる症状も、犬目線で考えたら、きっと犬は精いっぱい大好きな人間家族と生きて幸せだったのに・・・・・・、もっと傍にいてやればよかった、あぁ、早くに気づいて医師に診てもらうべきだったと。

そんな愛たっぷりの飼い主の、悔やむ心が感情のロスを作り上げるのかも知れないのだと思ったり。

愛するグレイが逝ってしまった画家の心には、大きな穴がぽっかりと開いてしまう。
その穴を埋めるには、グレイが戻ってくれることしかないかもしれない。

けれども、逝ってしまった命を再び戻すことはできない。
人間という複雑な感情を持つ生き物は、哀しみの穴を何個も開けながら生きていくしかないのだろうか。

死は哀しい、けれど、グレイの死は、わが家のプリンがくれたあらゆる心を、思い出すことになった。
食べなくなって、飲まなくなって、訪れる死を受け入れる。
死にたくない!などと喚くことをせす、静かに死が来るのを待つ。


本のページの相当数を占める、伊勢さんの柔らかなパステルタッチの挿絵だけでも楽しめる、何度読んでも、ほろっとさせられるエッセイ、『グレイがまってるから』

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元の飼い主の身勝手な都合で、殺処分寸前の運命にあった、ほんの赤ちゃんだったプリンを、娘の弟としてわが家に迎え入れた。




16年近く生きてくれた間に、プリンは娘の弟から兄になり、最期は家族中で一番のおじいちゃんになって死んだ。
それでも、あのわが家にやって来たその日から、ずっとプリンは私の息子だった。
プリンを愛することで、私たち家族は、人生のかけがえのない日々を、犬という愛情豊かな仲間と過ごすことができたのだ。


少し古い本ではあるけど、『グレイが待ってるから』は、読み終えた私を、そんな気持ちにさせてくれた。




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足るを知る幸せ

昔に読んだ本を読み返してみると、当時と今では受け取り方が違うことが多い。
ベルギーが舞台の【フランダースの犬】、ネルロ少年と愛犬パトラッシュの物語。
貧しいながらも、ネルロは愛犬パトラッシュと牛乳を売りながら、おじいさんの手助けをする、幸せな暮らしをおくっていた。

ネルロの日々を豊かにしていたのは、ベルギーが生んだ偉大な画家、ルーベンスのような画家になる夢だった。
子供のころに、読んだ方も多いと思う。

そんな幸せな日々は、おじいさんの死によって終わりを告げる。
情け容赦ない家主に住まいを追われ、極寒の中を彷徨うネルロとパトラッシュ。
飢えと寒さでネルロは、死を覚悟する。
なぜ、家主はネルロを追い出すのか、 その非情さに、子供なりに怒りを覚えた。

最期にネルロは、偉大な画家ルーベンスの絵を観たいと願う。
その瞬間、風でカーテンが揺らぎ、ルーベンスの絵が観える。

ルーベンスの絵を観ながら天に召されるところでは、感極まって図書室であることも忘れ、小学生の私は、本を抱きしめ、大声で泣いた。
この物語は、何度も何度も読んだからか、ネルロが夢の中にまで出てくるようになった。




最近、この本を読み返してみた。
初めて読んだ日から50年近くが過ぎたことになる。
あの時と今では、私の受け止め方が違う。

これでもか、これでもかとネルロに、不幸が襲いかかることで、幼いころは、ネルロが、不運のままその短い一生を終えたと思っていた。

でも、今思うのは、死ぬその間際、ネルロは幸福に包まれていたのじゃないだろうか、と、読み返してみて、そう思ったのだ。
観たかったルーベンスの絵が、奇跡によって、ネルロの最期の目に触れた。
なんて幸せな最期だろうか。
人はその生に別れを告げるとき、誰もが、このように心を満たされて死ねるだろうか。

『足りて知る』、という言葉がある。
作家ウィーダーは、このことを言いたかったのではないだろうか。

幼いころは、悲劇の本と言われるこの物語の、ネルロの不遇な身の上に自己を重ね、嘆くことで自己満足していた。
戦争を知らない私世代でも、日本はまだまだ豊かな時代ではなかった。
貧しい人々がそこかしこに多くいた。

その背景とネルロの境遇を自分に置き換え、同情し泣いた。
人の歩く道には、四季がある。
ネルロのその短い一生にも、ちゃんと、人生の四季はあった。

非常な家主の娘アロアは、ネルロに優しかった。
パトラッシュは最後まで、ネルロの腹心の友だった。
そして、親代わりになってくれたおじいさんに愛されていた。

ネルロに、人生の春はあったのだ。
そして、ネルロは、最期に、最大の夢、ルーベンスに逢えた。

死に向かうその際で、『足りて死ねること』 あぁ生まれてきてよかったと思えることが、なによりも、よりよく生きたと言えるのではないだろうか。

と、若いころに、この本を読んだときには思わなかったことを、今は思える。
過去に読んだ本を、読み返してみることも、案外いいかもしれない。




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ブログを書く心にある想い

私は小さなころから、本を読むのが大好きで、戸外で遊ぶのもよくしたけれど、本があれば幸せだと思う子どもだった。
寝食を忘れるほど、何かに夢中になる、そんなことは読書以外、他にはなかった。

本は、子供時代の私の大切な相棒で、それは今も、あまり変わらない。
読む楽しさを知った私は、次に書くことに興味を覚えた。

感じたことを言葉にして、伝えたい。
伝えたい思いが伝わったとき、そこに大きな喜びが生まれる。



そして私は大人になった。
大人になってほどなくして、世界はインターネットという、電波を通じて交流できる時代になった。

大阪の片田舎に住みながら、大都会ニューヨークの人と、リアルに話ができる時代が来たのだ。
パソコンの向こうに広がる、ワールドワイドの広大無辺な世界と、時空を超えて繋がる。


今も、こうしてブログで多くの方々と、イノシシやタヌキ、見たことはないけれど、熊まで出る山奥に住む私が、家に居ながらも、交流させていただいている。

毎日のように訪問して読んで下さるだけでも有難いというのに、掲示板にコメントを下さったり、参加しているブログのランキングに応援クリックをしていただいたりしている。

いつも感謝しながら、パソコンの向こうに住んでいる人たちの、お一人お一人の顔などを想像する。

本当に良い時代に生まれたと、魔法の箱のパソコンを眺めながら、笑みがこぼれる。
インターネットを介して、世界の垣根がなくなって、さらに多くの日本全国あるいは海外の人々と、話すことがますます可能になってきた。

FaceBookやTwitterなどのワールドワイドのSNSで、もしかしたら、昔の音信不通になってしまった知人を探すことができるかも知れない。

私にも、東京の学生時代に、連絡がとれなくなった、友がいる。
だから、探してみようかと、そんな思いが顔を出す。

けど、私はそれをしない。

しない、それこそが、私がブログや日記を書く理由になるからなのだ。

心にあるのは、想像、あれこれと思いめぐらすこと。

過ぎ去った懐かしい日々、人たちを想いながらあれこれ想像する。
そんなとき私の心には、過ぎ去った日々が目の前にはっきりと浮かんできて、生き生きと蘇る。

蘇る心を、私は言葉にしたい。

とっても気障な言い方だけど、自分に想像の翼がなくなれば、私は書くことをしなくなるかも知れない。
書けなくなる自分、それが怖いのだと思う。



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『ゲゲゲの鬼太郎』、ねずみ男の存在価値

テレビが地デジ放送になって嬉しいことの一つに、昔のアニメの再放送がある。
再放送と言っても、昔のアニメそのままを放送するのではなく、新しく描き直したものだから、美しい映像で見ることができる。

デジタル加工された、美しい映像で観るアニメは格別。
もうアナログでは観られないと思う。

また、家族みんなで楽しみにしている、『にほんのむかし話』 も美しい映像、新しいアニメ作家の作品で再放送されている。

なかでも、『ゲゲゲの鬼太郎』は、少し前に、月曜日から金曜日の朝8時から毎朝、放送していたモノをDVDにして何度も観ている。
好きなアニメを録画して、自分の自由な時間に観ることは、私の日々のなかの楽しみの一つになっている。
アナログ放送のときとは違う、美しい映像で“鬼太郎と目玉おやじさん”が出てくると、大人げないけれどわくわくする。

もっとも、真にゲゲゲの鬼太郎ファンの方は、あのオドロオドロシイ怪しげな雰囲気が、美しい映像からは見えないと、お嘆きの方もいらっしゃるかもしれない。

今朝、観たのは「ぬらりひょん」という最悪の妖怪の処刑の話。
このぬらりひょんの処刑を阻止すべく、例によってねずみ男が、裏で悪巧みを画策する。

ぬらりひょんを助けるために、カマイタチという妖怪を唆した。
どんな妖怪にも、弱い点がある、そこをつけばいいのさと、うそぶく、ねずみ男。

世の中は正義がまかり通ることは少ないと、そう思うことが多々ある。
不条理な出来事に怒りを覚えることも多い。

そんな世の中には、ねずみ男のような存在が必要なんだろうと思う。
己の欲のために、悪い妖怪と通じることが出来て、利用するためにだけ、正義の妖怪にも擦り寄ってくるねずみ男。

しかし、彼は時として、真に正義の心だけを出すこともある。
もうだめだとなった鬼太郎を、間一髪、悪の手から救出するヒーローのようなこともしてのける。

心底、悪ではないねずみ男のような存在が、不条理な世の中を救うことがある。
ねずみ男ような存在を、きっと必要悪というのだろう。


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