けれど、昔の性教育はこうだった



今思うと赤面ものだけど、私は16歳ごろまで、赤ん坊はおへそから出てくるものだとずっと思ってた。
それは昔の教育の賜物なのだと思っている。。
私が子供のころは、性教育は女子だけ講堂に集められて、花のおしべとめしべを例にとって、先生が話してくれた。

そんな日は、クラスに戻ると、男子が妙ににやにやして私たちを見る。

それが、確か、小6だったと思う。
そんな年齢になっての性教育というは、当時でも少し遅いような気がするけど、どうなのだろう。

私のクラスには体の大きな女子が居て、彼女は多分、もう生理は始まっていたと思う。

体の小さな私はもちろん、まだ子供のままの体で先生の性教育話を聞いた。

漠然としたままでも、なんとなく大人の入り口に近づいた感が子供心にも分かって、動揺した心で家に帰った私。

帰宅するなり、

「おかあちゃん、今日、学校で○○の話をしはったよ!」

「そうか、○○が始まったら、男の子と手を繋いだりしたら赤ちゃんができるんやで」

「えっ、お母ちゃんほんま?」

「赤ちゃんってどうやって生まれてくるの?」

しっつこく食い下がる私に、母は言った。

「あのな、お腹の真ん中にお臍があるやろ?そこがビョーンと伸びて、赤ちゃんがこんにちはって出てくるんやで」

私は母の話を聞いて、ドキドキと心臓が早鐘のように打ってきた。
実は、私は小学校の運動会のフォークダンスの練習で、男子と手を繋いで踊ったからだ。

母の話では、男の子を手を繋ぐと、赤ん坊が出来るのだ。
M君と、H君、二人の男子に挟まれていた私は、とても悩んだ。

まだ子どもの私に、赤ちゃんができる!
けれど、赤ちゃんのお父さんは、一体、M君、K君のどっちなのか。
私は悩む、悩んでも誰に相談していいのかも、分からなかった。

ドクトル・チエコが私の歴史に登場するのは、もう少し後から。

恐るべし、昔の性教育、もしかしたら私は赤ちゃんができることを悩んだ挙句、自殺したかもしれないのだ。

時は過ぎ、私が正しい知識を得たのは、高校生になってから。
ところが今は、リアルに実地で教育するらしい。
さてさて、オブラートに包み過ぎもよくないけれど、男女一対の人形を使い、実地訓練さながらに性教育するのも、さて、どうなんだろう、と思うのだ。





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いじらしいオラウータンの子ども

私は動物が大好きだけど、お猿が苦手で、なかでも日本猿とは本当に相性が悪い。
動物園の猿舎には【猿と目を合わさないで下さい】とわざわざ張り紙をしているところがある。
それは即ち、猿というのものは感情的な生き物ということかも知れない。

先日の休みのこと。

家族で出かけたT動物園で、日本猿が、私を見るや否や檻の奥の方から走り寄ってきて、 語気荒く喧嘩を吹っかけてきた。

その口吻は、
「何!なによ!あんた何様のつもり!」 そんなふうに言っているように受け取れた。
しかも、その雌猿は、他の人間には目もくれずに一目散に私めがけて走って来た。

そんなことが何度も重なると、私は猿と相性が悪いとしか思えない。
ところが、同じ種のはずのオランウータンになるとまさに、相性ぴったし。

その同じ動物園でのことだった。
雌 猿の剣幕に恐れをなした私たちは、ライオン舎に移動した。
そのコースに行くにはオランウータン舎の檻の前を通る。
猿も嫌いではないけど、私は、オランウータンが大好き。

檻の前を足早に通過しようとした私の目の端に、一頭のオランウータンが映った。
寂しげな顔を見ると堪らずに、私もそのオランウータンを見返した。

そうしながら、心のなかでおいで、とオラウータンに声をかけた。
すると、オランウータンは、私の元へまっすぐに駆け寄ってきたのだ。
そして、檻の中から私に向かって手を差し伸べて、私に向かって話しかけてきた。

それは本当に話しかけるという動作そのままで、その時点で、他の見物客は「オーーッ!」と歓声を挙げた。
愛らしいオランウータンの子どもは、そのままガラス越しに私と会話を続けた。

オラウータン舎の前に居座る私に、他の見物者に迷惑だと、家族が促す。
行かないでと目で訴える、オランウータン。

その目は、不自由な暮らしは嫌だと目で訴えているように、私は見えた。
でも、子犬じゃあるまいし、家に連れて行くわけにはいかない。

オランウータンはもしかしたら、檻の前を通る人間みんなに声をかけているのかも知れないけど。
そこにたまたま、私と目と目があったのだろうか。
それでも、私は遣る瀬無い想いでいっぱいになった。





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15歳の自分に逢えたような気がした朝

今日は朝から雨だけど、突然、あぁきれいにしたいと、ずっとほったらかしだった物置を片付けようと、重い腰をあげた。
物置からは、蜘蛛たちが蜘蛛の子を散らすように退き、しーんと静まり返ったその部屋は、ひやっと涼しい。
暗闇に目が慣れるまで、ちょっぴり刹那な時間が流れていく。

目的は、もちろん、年齢に応じて、断捨離。
背負うものを少しずつ軽くしていこうと、最近、考えるようになってきた。


私は悪い癖をもっていて、何か整理しようとすると、つい、そのモノに見入ってしまう。
だから、今日は、何物にも目をとめないぞぉ!と決心し、たつもりだったのに・・・・・・。

真っ先に目に飛び込んだのは、ちぎり絵の切り抜きをランダムに張った段ボールの箱。
そこには、昔昔の、若かりしころに夢中で読んだ本が入っていた。
趣味のない私の唯一の本が、仕舞われていた。


とっくに図書館にもらってもらったと思っていたのに。
懐かしくて、一冊ずつ手に取って、のんびりと納屋で読書してしまう。
気がついたときは、もう11時。

朝ごはんも食べないでかかりっきだった、どおりで、お腹が空いたな~~って思うはず。
本の中にひときわカビっぽい匂いのする本は、中学生のころの本だった。

『不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸われし 十五の心』
啄木は空を見ながら、こんな歌を詠んだ。
15歳のあのころの私も、空を見上げるのが好きだったけど、何かに無性に腹をたてていた。


これからの進路のこと、ダウン症の妹のことなどなど。
私の心の重いモノを空に吸い上げてほしいと、そんなことを思っていた。

今、私は15歳の自分に逢えたら、何を言ってあげられるのだろう。

泣きたくなると空を見る。
そしたら、涙は途中で止まってくれる。
そんな経験も、啄木の歌で知ったのだった。

懐かしい15歳の自分に、少しだけ逢えた気がして、なんだか切なくなってしまう。

ふと上を見上げると突きぬけるような青空に白い雲が浮かんでいた、思い出されるあの頃……。

「十五の心」と止めているが作者自身が今、十五歳ではない。
不思議な印象をうけてしまう表現で書かれているこの短歌。
実は回想であると知った時は何とも表現しにくい気持ちになる。

15歳頃の純真でまっすぐな思いが、心からなつかしく思われる。
あの時に戻ることはもう叶わないけど、せめて心だけでも戻ってればと、そうやって作者は大空を見上げていたのかもしれない。




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夫婦は相身互い

ちょっとした出来事があった。
勝手口を入ってすぐのところにある鍵掛けのコーナーに、夫、娘のはあるのに、私の鍵束だけが掛かってないのだ。
またやってしまった!

私は取りあえず、バッグの中、着ていた衣類のポケットを探す、無い、どこからも出てこない。
鍵束には、表玄関のキーもついている、それは特殊な形状の高価な鍵なのだ。
しまったという思いに探す手が震える。


私は鍵をよく失くす。
失せもの探しものを、しょっちゅうしては家族、特に夫には迷惑をかけている。

慌てもの、粗忽もの、の私の失せものを、名探偵コナンのように発見してくれるのはいつも、夫。
名探偵のように、失くす前の私の行動の仔細を問い訊し、論理的に導き、ついには失せものを発見するのだ。

夫は凄いなと、思う場合ではないのに、心から関心してしまう。

夫はまた、風で壊れた物置の小屋根に上り修理したり、水道管を破裂しないようにしたり、また、娘のパソコンをテレビも見られるように電線を繋いだりもする。
別段、工業系の学校を出たわけでもないのに。
そんなとき、娘と私には、夫が魔法使いに見える。

それともこれは、余所のご主人は知らないから比較のしようがない、夫たる人なら当たり前に出来ることなのだろうか。

鍵の紛失に気づいた私は夫に報せ、前日の行動を訊かれる前に、思い出そうと、記憶をめぐらせていた。
ところが夫の様子が、いつもと違う。
私の直前の行動を、訊いてもこない。

そして、何かを案ずるような顔をしている。
夫の顔を見ながら、私は、心細くなってきた。
何か言ってほしい、いつものように滔々と訊いてほしい。


ようやく口を開いた夫、

「ごめん、鍵を借りたのは僕やけど、掛けた記憶が無い、どうしても思い出せんのや」と言うではないか。

私は、どういえばいいのか、大海原を彷徨う小舟のような、心もとない心境になり、愕然としてしまった。
鍵を黙って借り、返したかどうか記憶にない、そんなことはどうでもいい。
そうではなく、頼りにしている、私にはもっていない能力を持つ夫に、心から頼っている自分に、なのだ。

私たちもシニア世代になり、脳の知力が衰えて来たと否応なしに、日々の暮らしからも感じている。
特に慌て者の私には、金剛法器界のように落ち着き、他に惑うことない心持の夫が、最後の砦だったのだ。

「困ったときには、必ず何とかしてくれる、解決してくれるスーパーマン」だと・・・・・・。

けど、夫も年老いた。
寂しいけれど、脳力は年相応になってきたのだ。

鍵の紛失騒ぎで、これからの夫との在り方を、つらつらと考えてみた。
夫は、今月で62歳になる。
振り返ると、ずいぶんと長い付き合いになるのだなとしみじみ思う。


縁があって夫のところに嫁ぎ、この年月をたまには諍いもしながら、共に歩いてきた。
私は、この間、主婦として半人前、おまけに人間としても半人前のように思える。

夫との年月の間に、おかげで、私は変わった。

いろんな夫との年月を思い返すと、自分が情けなくなる。
あまりに私は夫に依存しすぎたと思うのだ。

料理は下手、家計簿も付けない。
取説をきちんと読まずに家電を使うせいで、壊したキッチングッズは数えきれない。
そのたびに、怒ることもせずに修理してくれた。

その夫が、私の鍵を無断で借り、しかも紛失した。
私よりも、どれだけ夫のほうがショックを受けているのかと、今日、職場から送ってきた「ごめんメール」で、ハット気づいた。

人と人の縁とは、まさに奇跡ではないだろうか。
出来るかどうかは別として、これからは、私も夫の手助けができる人間に成りたい。
互いに衰えてきた身体や頭の、互いの欠けている部分を、相手が補っていく、そんな夫婦で在りたい。




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痛みが引き金になって思い出す

先週、土曜日に起きた突然の身体の痛みで、しばらくの間、何もせずに安静にしていた。
家事さえも日ごろのええ加減を、さらにいい加減にし手抜きをする始末。

そしてこの機会に、ずっと読めずに積んでいた本を読むことができる、私はシメシメと思った。

けれども、高を括っていたことにすぐさま気づく。
左手から肩の痛みは、身体をちょっとでも動かすだけでうねり声をあげるくらい凄まじい。
本を右手で持って読もうとしてもできない。
寝返りと打つこともできずに、じっと天井を仰ぎ見るしかなかった。

そんな状況こそが、本来は安静というのかもしれない。
けれど、貧乏性の私は、じっとしていることに慣れていないのか、ナニカをせねば(ただし家事以外の)、と焦りに似た思いがでてくるのだ。

トイレまで歩こうにも全身に痛みを感じてしまうので、水分を制限した。
すると、部屋の暖房と相まって、脱水症状のように唇がカサカサになってしまう。


痛みの中で、思い出したことがあった。
私が中学2年生の夏、祖父が胃癌で死んだ。
激しい痛みに断続的に襲われ、耐え切れない祖父は、亡くなる寸前まで、「殺してほしい」と涙を流し、医師に訴えていた。
その光景が、自分が安静にしているベッドの天井に浮かんだのだ。


あのころ、私はまだ子どもだった。
祖父の苦しみを見て怖くなり、その場に居た堪れなくなってしまった。
祖父の苦しみに心を傾けることもできなかった。
痛みに悶えながら、希望のない生のなか、死を待つだけの日々。


それまでは、胃痛すら訴えたこともない祖父が、春先に突然、吐血した。
救急車で運ばれた市民病院での検査により、胃癌であることが判明する。

手術で開腹をしたが、すぐに閉じられた。
末期癌の前に、当時の医療では成す術は何もなかったに等しかったのだろう。
胃の辺りを痩せこけた手で押さえ、熱い、痛い、苦しい、と言い続け死んだ祖父。
夏の盛り、病室の窓からは、公孫樹の葉が生茂り微かな風に揺れていた。


生きているのならば、胸を焦すような樹木の秋の美しさを感じることなく、この世を去った祖父。

今度は、私は、天井の光景に目を背けることなく、心に浮かぶ思いを考えてみた。
痛みを増大させた私の心には、祖父の死の光景があったのだなと思う。
痛みとは、脳で感じるのだろうか。


それなら、私の痛みは、祖父の凄惨な死に立ち向かえなかった自分の不甲斐なさと関連があるのかもしれない。
痛みとは、死ぬより以上の苦しみなのだと、私の記憶にインプットされてしまった。
そしてそれが、痛みのトリガー、即ち、引き金となり痛みを増大させたのだろうと思ったのだ。
痛み止めという薬を飲むことは、その自分の心の深いところにあった記憶を表面に浮かび上がらせてくれたようにも、思う。

これも、一つの緩和医療かもしれない。



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書き言葉の拘り

わたし、という一人の人間が自分の心の風景を書く、ただそれだけのこのブログですが、いつもお読みくださいまして、ありがとうございます。

大阪の片隅、おーいと叫べば奈良に行く、そんな里山の雰囲気が残る地で、私はこの日記を書いています。
実は、この雑文を書くのには、私なりの拘りがあります。

多分、学生時代の一時期を東京で過ごしたからだと思うのですが、私は、日記を書くときに頭の中で、東京言葉とおおさかことば(厳密には泉州弁)を使い分けているのです。
例えば、まあまあシリアスな内容は東京言葉で、ちょっと笑えたり軽いタッチの内容は、おおさかことば、でと自分の中で無意識に区別しているのです。

ごくたまに、『一言、言わせて!』というジャンルでブログを書くことがある。
そんな場合は、 何かに対し、ひとこと言いたいわけだから、やっぱり、理不尽な事柄に対し怒りを覚え、その憤りのまま書くことが多い。
そんなとき私は、その憤りをおおさかことばで考えている。

その怒りを東京言葉で考えて書いてしまうと、とても読みづらい内容と言うか、感情が迸っただけの文章になる。
例えていうなら、文章の語尾が「!!や、フンッ!」みたいな大仰なだけの文章となってしまうのだ。
それをおおさかことばで考えて書いた場合、割合にすんなりと書ける。
そして、読んでくださる方に、怒りをそのままの形で、受け入れてもらえるように感じている。
(すみません、自画自賛してしまいました)

本音は、おおさかことばで考えるなかには、文章に “クスッと笑えるエッセンス” を入れたいという下心もある。
そして、もっと本音をいうと、この拘りに、東京言葉とおおさかことばを足した、新拘りのジャンルが出来ると、もっと文章表現の幅が広がるのになと思っている。

けれど、不器用な私は、この東京言葉とおおさかことばへの拘りに、固執してしまう。
私の『ブログお気に入りさん』の中には、 “クスッと笑えるエッセンス” あるいは “ほんまや!と共感できる怒り”
“思わずホロリとしてしまう” などを、言葉巧みに書かれている方が多い。

みなさん、「文章を書くときに拘っておられることは何ですか?」

と訊くと、「えっ、そんなの何も考えていませんよ。ただあるがままに書いているのです」
もしかしたら、そう答えられるかもしれない。


自分のそんな些細な、書くことへの拘りを書きながら、実は他の方々はどんな拘りを持たれているのだろう。
と、思っているのです^^



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母の手から生まれる魔法

私の母はとても器用だった。
けれど、母は文字をほとんど知らなかった。

弟妹に学校に行かせるために、母は小学校も満足に通えないまま、九州から大阪にでてきた。
大阪に着いた母は、親せきを頼り、紡績工場に勤めた。
勤務の傍ら、得意の裁縫を活かし、同僚の女工さんたちの着物を縫っていた。
その賃金も家への送金になるのだ。

母の仕送りがあり、弟妹はすべて大学に通うことができたと、一番下のまだ健在の叔父が話してくれた。

文字を知らない母だったけれど、その代わりに、器用さを神様から与えてもらっていた。
母の手からは、いつも美味しいモノや綺麗なモノが生み出されていく。

小さなころ、私は母の手をじっと目を凝らして見つめていた。
そうしていると、魔法の種明かしを発見できるような気がした。

ある日、母に連れられて電車に乗った。
私たちの前に、一人のおばさんが座っていた。

母はそのおばさんをじっと見ていたが、突然、席を立つとおばさんに声をかけた。
「すみません、その袖を少し見せていただいてもいいでしょうか」
怪訝な顔をするおばさんに、母は熱心に頼んでいた。
私は母のそんな態度にびっくりしながらも、なんだか恥ずかしく、身を縮こまらせていた。


家に帰ると母は、すぐに裁縫箱を取り出した。
そして父の読んだ新聞紙を一枚、大きく割くと、何やらごそごそと書きだし始めた。

母は真剣な表情で考えている。
私はワクワクしながら見物していた。
そして新聞紙を半ページ破ると、大きな紙面の上にくるっと丸めて置くと、二つの紙面を合わせ色鉛筆で図を描きだした。

そこから生まれたのは【ラグラン袖】だった!
電車のおばさんが着ていたのが、そのラグラン袖だったのだ。

たった一枚の読み古した新聞紙から、こうして母の魔法が生まれた。

ラグラン袖は、当時はまだ、一般には知られていないファッションだった。
そして母はそこから型紙を起こすと、商店街の生地やさんに出掛けた。
数日して、母は新調のワンピースを着て、参観に来てくれた。

小さなころ、母はその学のなさを、父の姉妹たちに馬鹿にされ続けてきた。
無学と言う言葉を聞くたびに、私は母のラグラン袖を思い出す。




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私はわたし、「これでいいのだ」と思う

15年くらい前から、私は、web日記を書き続けている。
ストレスを溜めやすい性分故、ちょっとした躓きが少しずつ溜まり、心が折れそうになる。
折れそうな自分とは、書くことで何とか折り合いをつけるようにしてきた。

ブログには、もう何度も書いているけれど、私は新しい人間関係を築くことがとても苦手。
これは、ネットの世界でも変わらない。
自分からブログにコメントをしたり、訪ねたりするのは、心臓がパクパクするくらい、緊張してしまう。
何度か書いては消し、結局、投稿しなかったコメントも数ある。

今は諦めの境地ではないけど、それは自分の個性だと、自分が認めてやろうと思っている。

そんな私は、少し前に、現実世界で、そんな自分を修正しようと試みたことがある。
お喋りに花を咲かせ、ランチに付き合い、ウインドーショッピングにも行ってみた。

誘われるままに、習い事にも通い、それから、電話でお喋りを愉しむ、ということにもトライしてみた。
それらをした結果、私は疲れがどっと来て、家族とさえ口を利くのが億劫になってしまったのだ。


無愛想な自分だから、目の前の相手に好かれようと、とってつけたような努力をする自分がいて、そんな自分に私は心底、疲れた。
心の殻を破り、そこから出る努力をした結果、私に残ったのは疲れだけだった。
お洒落なレストランでランチもいい、極々、たまになら。

けど私はそれよりも雑木林を歩き、そこでお弁当を食べたい。
それなら、毎日でも付き合える。

頻繁に連絡しあったり、出かけたり、電話で喋ったり、それらは私には向かないと分かった。
できたら友とは、数年に一度くらいの間隔で会えたら。

今週、私が家族以外で、口を利いたのは、簡易書留を配達してくれた郵便屋さんに、「認めでいいですか?」
その一言だけ。

今週が特別なのではなく、大抵はこんなふうなのだ。
そう思うと、やっぱり私は、一人が苦にならないし、好きなのだ。

その一人の時間にも、こうしてブログを通じて交流する楽しみがある。
読んで書き、また読んでと、私が好きな空間がここにある。
アニメ、【天才バカボン】のパパじゃないけど、「これでいいのだ」




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夫婦の寝室

3年前、私は出勤前の、慌しさの中で、階段から転倒した。
たった3段と侮ってはいけない。
その3段で命を落とした人もいるのだ。

損保保険の業務代理をしている人が言うには、『在宅事故の大多数は階段から転倒すること』らしい。

私の場合、幸いに命を落とすことなく、今日まで元気に過ごしている。

ただ転倒した際に、運悪く膝の半月板をひどく損傷してしまい、日常生活に支障がでることを余儀なくされた。

それまでは、たまに家に持ち帰ってする仕事のための部屋も寝室も、2階がベースだった。
けれどまた、転倒するからとそれら生活のベースを1階に移すことにした。

それを機に、夫と寝室を別にすることになる。

私たちは、休む前の、わずかなひと時をその日にあった取り留めない出来事を話すのを
、それまでは日課にしていた。

大抵は夫が話し、私は聞くだけ。
正直、持ち帰りの仕事をしながら聞くことが多く、取り留めのない夫の長話に、うんざりすることもあった。

ところが、寝室を別にすることで、その時間がずれてしまい、いつの間にか、無くなってしまった

人は無くしてはじめて分かることもある。
あの夫の無駄話に、私はどれほど救われていたか、無くなって気がついたような気がする。


もちろん、夕飯の食卓を囲み、娘を交えた一日の話も楽しさに変りはない、けれど、夫との、そのわずかなひと時が大切な時間だったなと思うのだ。
結婚する前、母と嫁入り前に話をしたことがある。

ちょうど、百恵ちゃんの歌、“秋桜”の歌詞のように、母がおしまいに、一言、呟くように言った。

「結婚したら、夫婦は同じ部屋に寝らんとあかんよ」

年を重ねると、寝室を別にしたという話をよく聞く。

けど、なんとなく、今の私はあの日、母が言った意味が分かるような気がする。





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真ん中の子

私は幼稚園に通っていない。
私の年代の人は、幼稚園通う派と通わない派では統計指数によると、50%ずつらしい。


5歳年長の姉は、幼稚通い派だ。

いかに、第一子というものは慈しみ、愛され、大切に育てられてきたか、
これをみても分かるというものではないだろうか。



私は、モノゴコロつくか付かないかのころから、姉に嫉妬していた。
姉は故郷の猟師町の子供らしくなく、色白で、愛らしい顔立ちだった。

反面、私はというと、そのものずばり。
色黒で大きな目をギョロギョロさせて、
世の中を斜めに見ているような、可愛げのない子供だった。

姉は愛されること、かわいいと褒められることに慣れていた。

大人から、可愛いねぇと言われると、
少し伏し目になり、そんなことはないと、はにかむように言うのだ。

本当は自分でも可愛いと知っているのにである。

姉には私と下に二人、妹が3人居る。
三女は姉を慕っていたから姉のお気に入りだった。

しかし、私は何かにつけて姉に反抗していたからだろう。
姉からは、疎まれていた。
両親は、姉には甘く、
意の一番に流行のおもちゃなどを買い与えたり、お稽古ごとを習わせたりしていた。

私の少女期の日々は、自分の容貌を姉と比べ、落ち込み。
両親に愛されている姉に嫉妬していた。

私は悪戯することで、両親を自分の方に向けようとしたりして、
近所の悪童たちと遊びに興じていた。

そんな私も、小学校に通うことになった。
私の故郷だけかも知れないが、
昭和のその時代は、入学前に知能を判断するテストが行われていた。

5歳年長の姉が居た所為か、私は読み書きには長けていた。
自分の名前をカタカナ・ひらがなは勿論のこと、漢字で書くこともできた。

それに、簡単な算数もできた。
森田式というのか、単純に数字をひたすら足して行く式のものを、
すべてやり終えることもできた。

そこに居合わせた大人たちの口から洩れる、

「オーーッ、ワァーー、すごい」。

7歳になるまで、称賛というスポットライトを浴びたことのない私は、
嬉しかったが、それをどう表現するのか分からなかった。

きっと、姉のように伏し目がちに笑っていれば可愛げもあったのだろう。
が、私は出来なかった。

相変わらず大きな目をぎょろぎょろさせて、相手を威嚇していた。
野生の動物さながらに。

そのとき、大きな机の後ろから、ニコニコ笑いながら男性が近づいてきた。

「賢い子やなぁ。本を読むの好きか?」そう私に問いかけた。

正直、私は悪戯小僧どもと遊ぶより以上に、本当は本を読むのが大好きだった。
本には、悪戯仲間の遊びでは得られない、もっと高揚する冒険があった。
愛犬のマミが死んだときも、私の本によって慰められた。

本は私の親友だった。

そのことを聞かれて私は警戒を緩め、思わず笑ってしまった。
いったん笑うと、緊張の糸が弛み、次から次へと、私は本の話ができた。

それが、やまざきゆうぞう先生だった。

以来、先生が亡くなる3年前まで、
折に触れ、私は先生と親交を温める機会を持つことができた。

最期まで、先生は、私の先生だった。

先生との在りし日の数々を、思い出すと、今も心が温かくなってくる。



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