ゆりかごの歌

小さなお話に画を添えて、心がほっこりするようなブログを書いてみたい。
MENU

娘の憂い

27歳になった娘が最近、必要以上に、私の心配をする。

「お母さん、階段の上り下り気を付けてね!」

は、まだ良いとしても、スーパーの買い物、荷物の持ち方にまで注意やダメ出しをしてくる。

「重い荷物は、左右にバランスよく持つ方が足にはいいよ!」 とか、有り難い反面、少しだけええ加減にして、と思うこともある。




口を出す、などと書けば、さも迷惑だと、私が思っているように誤解されるかもしれない。
そうではなくて、私は哀しいのだ。


あれは、母が還暦を迎えたころだった。
健康が取り柄で、無口だけど笑顔を絶やさない母が、ふと、とても小さく見えた。


予約していた歯医者さんに行くという母に、たまの休日で実家に戻っていた私は、車で送っていくことにした。
歯医者さんに着いて、先に母を降ろし、駐車場に車をいれながら、ふとバックミラーに映る母の後ろ姿を見たときだった。


背中もいつの間にか丸くなり、始終、腰に手を当てる仕草に、母も年老いたなとしみじみ思ったのだ。

そして私は、そのとき、胸が疼くような痛みを感じ、心が切なくなってしまった。

お母さんとも、いつか別れがくるんだと、母の老いを感じた瞬間だった。
今の私より2,3歳くらい年長だけだったのに、決して私が若いというわけではなく、母の時代の女性は、今よりも老けていたのかもしれない。


そんな母のことを想いだして、私は悲しかったのだ。

私も、娘から見ると、あの日の母のように見えるのだろう。

親が小さく見えたのだよね。
まだまだ、娘にとって頼りがいのあるお母さんでいたいのに。

お母さんも、あぁ年老いて行くのか、ということなのか、と娘もかつての私が母に思ったように、感じているのだろうか。
そう思うと、切なくなってしまう。





にほんブログ村 ライフスタイルブログ 丁寧な暮らしへ
いつも、イイネクリック、コメントをありがとうございます!
---------------------------------------------------------------------



スポンサーサイト

『惚けの皮』 を被った、知的なおばあちゃん

父は脳梗塞の発作後、リハビリの甲斐なく半身麻痺になってしまった。

そのころの私の実家は古い家屋で、バリアフリーなどには程遠く、在宅では介護も叶わない。

家を改造するまでの間、やむなく、父は有料老人ホームで暮らすようになった。
家計的には、特別養護老人ホームに入所してもらったほうが助かるけど、人気が高く、順番待ちでは何年も先になるという。

結局、即入居可能な、有料施設に入所することが一番の解決策だったのだ。


父がお世話になっていた施設は五階建てのマンション形式で、上階に行くに従い高額の室料がかかるようになっていた。
施設には、常駐の看護師さんが詰めていて、緊急時にはいつ何時でも、提携医院と連絡が取れるシステムが売りで、まあ、家族は安心してお任せできるというわけだ。




父は2階の、間仕切りで個室に見せてはいたが、二人部屋を居室としていた。
1階は事務棟や食堂などのパブリックスペースで3階から上はすべて個室の、高額入所者というわけだ。

父の部屋がある階の真上には、入所者や職員さんからは「まきちゃん」と呼ばれていた (認知症の) おばあちゃんが入所していた。
私が面会に行くたびに声を掛けてくださる、気さくな方だったから、私はまきちゃんが認知症だとは、とても信じられなかった。



もっとも、当時は認知症などとは言わず、呆け老人と言っていたように思う。



施設の中庭にはテラスがあり、ガーデンパラソルの下にテーブルと椅子を置いて、ちょっとしたカフェテリアのようになっていた。
お天気のいい日は、テラスでお茶をいただくのが、父の楽しみで、そこに何度か、まきちゃんが来てはお喋りしていってくれるのだ。

そのお喋りには、なんのおかしなところもなく、父と私は大いに楽しませていただいた。


ある日、私が行くより先に、父とまきちゃんが、テラスでお喋りしていた。
傍にそっと近づき、二人の親し気な会話を聞くともなく聞いていた。

「まぁ、私も大好きですよ!」と、まきちゃんが華やいだ声で、父の何らかの質問に答えていた。

どうも二人して、本の話をしていたようだ。

私の顔が、きっと驚いていたのだろう。
次に、まきちゃんがとんでもなく、エキサイティングでスリリングなことを話し始めた。

「あのね、私ね、実は惚けの皮を被ることにしてるの」と言うではないか。

そして、もっともっと説明が必要だろうと言わんばかりに、父と私を前に話し出した。

『化けの皮』という言葉がある。
つまり、まきちゃんは、息子さんや娘さんの前では、惚けたふりをして、彼らの詰問から逃れるようにしている。
施設の職員さんや医療関係の人はご存じだろうが、身内にはそれで充分、誤魔化せると。

惚けたふりをしていると、生きることがとても楽なのだと、笑いながらお喋りを続けるまきちゃんは、実はとても賢明で知的なおばあちゃんだったのだ。





にほんブログ村 ライフスタイルブログ 丁寧な暮らしへ
いつも、イイネクリック、コメントをありがとうございます!
---------------------------------------------------------------------




大らかな姉と、神経質な私

私は、小さなころから、『 ○○ちゃんは感受性が強い 』とよく言われた。
ただし、そのころは、その意味すら分からず、大きくなるにつれ、感受性と言うモノの意味、“感受性が鋭いということは、外界から感じ取る刺激を通常よりも鋭敏に感じ、それに対し、敏感に反応してしまい、さらに非常に影響を受けやすい”
と分かるようになる。


感受性というと、いつも、私は自分の姉妹間の、あるエピソードを思い出す。

5歳年長の姉は、神経質な私とは全く違い、おっとりとした性格で、あまり物事の細かな部分に気にしない。

私が大学生になったばかりのころ、その姉が結婚をした。
姉夫婦は新婚時代は、姉を気遣う父の考えで、実家の近くでアパート住まいをしていた。

姉はガスコンロの火をつけるときの『ボッ!ゴー』いう音が怖くて点火することができず、母は姉のSOSの呼びかけに応え、アパートに駆け付けるのだった。

私は、そのことを親から聞くたびに、自分でできるようにしない姉を快く思っていなかった。
ほどなくして姉は、夫である義兄の家に移り、そこでは、お姑さんがなんと、母の代わりに点火していた。
私の親も、姉のお姑さんも、なんて優しいのか、甘いのかと、呆れる私。


ある日、そのお姑さんが入院することになった。
次は私が、母に頼まれて姉の婚家に、ガスコンロ点火係りとして、応援に行くことになる。
姉は、台所で今か今かと、私を待っていたようだった。

そして、点火したガスコンロで、お味噌汁を作り始めた。
姉の手元をふと見る、何かおかしい。


なんと姉は、柄のとれたお玉を使っていたのだ。

柄のとれたお玉とは、持ち手が柄に入っている金属の長さ4センチくらいの棒しかない、それをそのまま持っているということ。
姉はその使いづらいお玉でお味噌汁を小皿に入れ、味見をしている。



姉のお玉をみたとき、「使いづらい、かっこ悪い、熱いだろうに」と、私ならとてもじゃないけど、そのような状況は耐えられないと思った。
私ならば、そのようなお玉は捨てて、新しく買い求めるだろう。

が、姉はまったく呑気なもので、少しも気にしているふうもなく、そのお玉を使っている。
柄がとれているのも、私が言うまで気もつかないふうだった。


よく言えばおおらか、だけど無頓着な姉と、自分との違いをまざまざと感じるのが、このエピソード。
先週の不安感でいっぱいになってしまったときの自分と、姉とを比べてしまう、


〇〇すべき、〇〇せねばならない、というふうに、私は何事をするのにも、自分を追い込んでしまうきらいがあり、それがさらに事態を悪くしている。

こんなとき、姉のように、ドンと構えることができるような性質だったら、そこまで不安を増大させなかったのでは。
感受性が鋭いということは、常に、内へ内へと自分の関心にばかり、心がアンテナを合わそうとしてしまう。

姉と私、人間をこの二つのタイプだけでは別けられないけど、やはり姉のような大らかな性格が私にも備わっていればなと、思うのだ。





にほんブログ村 ライフスタイルブログ 丁寧な暮らしへ
いつも、イイネクリック、コメントをありがとうございます!
---------------------------------------------------------------------

いつもコメントをありがとうございます。
昨日は、山向こうの村でボサノバのコンサートがあり、
また、日中は、森林組合主催の木彫り教室と、
出掛ける用事が多くて、返信が遅くなってしまいました。
ごめんなさい。









何をしても、続かなかった私だったけど

昨日は、心穏やかに、絵を描いて過ごしました。
亡き愛犬の写真を整理しながら、ふと絵に残そうかと、思い立ちました。



描きながら、心には様々な日々のことが浮かんでは消え、思えば、ずっと私は習い事を最後まで続けることができなかった。
一番初めは、妹と一緒に、算盤を習いに行った(行かされた?)

妹は、進級試験も難なくクリアし商業科のある学部を卒えると、見事、経理から税理と数字を活かす職業に就いた。
また、兼業主婦の傍ら、簿記のスキルを活かし、プロ並みの家計簿もつけていた。


同じ姉妹なのに、私はというと、小さなころから、数字が並んでいるのを見るだけで、拒否反応がでてしまう。
数字の一文字が、踊っているように歪んでみえてしまう有様で、家計簿どころか、レシートの数字を見るのも苦手ときている。

私は、数回の通塾で、算盤教室をやめた。


高校から大阪の親許を離れ、東京で学業を修めることになった私は、後に、高校一年生の担任の紹介で在日アメリカ人のお宅に住まわせてもらうが、当初は、父方の従弟の住む麻布から、高校の在る最寄り駅まで、越境通学をしていた。


通学沿線には、深窓のお嬢様が通われる、雙葉学園生の姿を目にすることが多くあった。
そのお嬢様方は、手に何やら黒革のケースを提げている。
それがヴァイオリンケースだと知る由もなく、一目見て高級と分かるケースに、私は目を奪われた。


そして、私も真似しようと、古道具屋さんで黒のビニール製のギターケースを買うと、それを通学の傍ら、提げていた。
これで私もお嬢様の仲間入り!

なんと単純なのだろう、今思うと、本当に情けない。


それでも、ケースを提げるだけではあまりにも不甲斐ないと思った私は、千葉の親戚宅までギターを習いに通うことになった。
これも、一度の通いで嫌になり、有耶無耶のうちに、やめた。



それからも、性懲りもなく、好奇心の赴くまま、習い事にチャレンジするも、結局、私には何も向かないのだと決断する。
要するに、何一つとして身に就いたものはないまま、こんにちに至っている。

自分では飽き性ではないと思う。
それでも、続かない私が、中年期になって習うようになった水彩教室は、続けられている。
(英会話教室も、なんとか続けられそうかな)


なぜ続いているのか考えると、自分の仕事にも繋がることだけど、私は何かを生み出す作業が好きなのだと思う。
ちなみに、チクチク手縫いや、ガァガァーとミシンを走らせて何かを縫う、それら縫物が好きだということも、中年期以降に、発見する。

水彩絵の具の色を出して、捏ねて、混ぜる、パレットに微妙なトーンが生まれてくる。
しかも、画用紙の質によって、絵の具の吸い込み具合が微妙に違うこともあって、思惑とは別なニュアンスが生まれることもある。


少しでも手を抜くと、そのまま作品に出る、しかし、手をかけてやると、それもそのまま作品に表れる。

完成後、軽い達成感のようなものが心に湧きあがり、それは、生きていることを実感させてくれる。
だから私は、習い事を続けられていることになるのかな、と思っている。



purin_2015-08.jpg
死んでしまう1週間前の、プリン15歳 こんなに明るい顔で、笑っていたのに・・・・・・
写真を見ながら描きました。




にほんブログ村 ライフスタイルブログ 丁寧な暮らしへ
いつも、イイネクリック、コメントをありがとうございます!
---------------------------------------------------------------------







うだうだ悩んでも、前には進めない!

一か月も悩んだ末、ようやく乳がん検診を受けたのが、今週の月曜日だった。
まず、触診、次にマンモグラフィーという乳腺を写すレントゲンをするのが、通常の検診になる。

私がマンモグラフィーを受けたのは、もう20年近く前になる。
ここが悔やむところだけど、その間、超音波で一度、乳腺を検査しただけで、一度も乳がん検診を受けていない。
自分の健康、体のことなのに、なんて怠慢だろと、猛省したけど、後の祭りにならないように。


今回、怖い心を抑え、検診を受けたというのに、受ける前よりも落ち込んでしまった。
その理由を、考えてみると。

40歳以上の私は、市の集団検診だと、ほぼ無料に近い検診費を支払うだけで済むこともあり、それを受けた。
ところが、マンモグラフィーの検査結果が出るのは、約三週間を要するという。


しかも、結果のみ、郵送されてくると言われた。
そこで、「えっ?」と疑問に思ったのに、口に出して言えなかった。
忙しそうにしている、医師、看護師、検査技師さんにそれ以上、無駄な質問をして、時間を割いてもらうことが、私にはできなかった。



帰宅後、疑問と一緒に、不安が噴き出してきて、心から溢れそうになってしまった。
触診では、医師も、私のシコリに首を傾げていたのに。

私のシコリに触れているとき、考え過ぎかもしれないけども、瞬間、医師の表情が変わった。
それを私は見たのに。
なぜ、そのときに、突っ込んで訊けなかったのだろう。

市の集団検診の限界を、感じてしまった。
決して、市の集団検診を悪く言うのではない。

ただ。この度の私のように、『すでにシコリがあり、過去に乳腺炎で手術を経験している人には、向いていない』
そういうことではないだろうか。

遠慮から、そのことに、疑問を挟めなかった、だから不安が増大してしまったのだと思う。




で、先ほど、保険扱い(あくまでも自費ではありません)で、受診という形で、再度、マンモグラフィー、超音波エコーの同時検査を受ける予約をした。



『高濃度乳腺』 というタイプが女性にはあるのをご存じでしょうか。
このタイプの乳腺は、マンモグラフィーでは真っ白になり、鮮明な映像は映らない。
この場合は、超音波が有効なのは、今では乳がん検診の常識になりつつあるのです。

乳がん検診では、ご自分が高濃度乳腺であるかどうかが、とても重要になってくる。

私は、自分が高濃度乳腺タイプだと知っていたのに。
シコリがあるのに、超音波を受けず、郵送で送られてくる検査結果を、三週間も待つチョイスをしようとしている。



もう止めた!
うだうだしないで、気遣いもしない。
だって、悪性だったとしても、自分の命に責任をとるのは、他の誰でもない、この私なんだもの。

医師の説明もない、ただ郵送されてくるだけの検査結果を、三週間も待てない。
来月早々に、もう一度マンモグラフィーと超音波検査を、市の集団検診ではなく、乳腺外来で受けることで、予約をとった。
結果は、当日、その日に専門医から説明があるらしい。


不安の正体が分かったら、あぁースッキリした。




にほんブログ村 ライフスタイルブログ 丁寧な暮らしへ
いつも、イイネクリック、コメントをありがとうございます!
---------------------------------------------------------------------








不安は、心に死の影を落す

人は、この世に生を受けた瞬間から、死への道を歩いている。
母の胎内より、この世に生を受けたときから、死への道を歩き始めた。

ただ・・・気付かないようにしているのか、考えないようにしているのか・・・。

かつて、私は日記に母の死生観を書いたことがある。
母は、命を一つの大きなリングのように捉えていて、自分の命は次の命を繋ぐための存在であるというのだ。

自分の命が終わると、その命の椅子に、次の命が座り、即ち自分の命は、次の命を繋ぐもの、という考え方だった。

一つの命が死なないと、命の椅子が空かないと、母は云うのだ。
「そう思うと、死ぬことは少しも怖くないよ」、と言っていた。

しかし母の子どもである私は、ちょうど思春期のころだったか、自分の命が尽き、この肉体も精神もこの世から消えてしまうのかと思うと、恐怖で気が狂いそうになったことがある。


今、私は乳癌検診の結果待ちをしている。
考えてもしょうがない、と、心から最悪の方へと浮かぶイメージを振り払う。



昨夜のこと。
横になっている私のベッドに娘が入ってきた。

娘は、その日に話したのに、また乳癌検診のことを訊く。
「たぶん大丈夫よ!」と言う私の言葉を聞くと、安心したのか、自分の部屋に戻っていった。


27歳にもなって、最近の娘は、赤ちゃんに返ったような仕草を私にする。
私はそんな娘が愛おしく、抱きしめたいくらい可愛いと思ってしまう。
(いい年をした母娘で気持ちが悪いですね、どうぞ親馬鹿とお許しください)



そして、そのあと、ベッドで一人、思わず泣いてしまった。
こんな娘を残してはいけない、死んでしまうわけにはいかない、強くそう思ったのだ。

いたいけな赤子であっても、適齢期の娘であっても、親から見るとわが子に変わりはない。
わが子に対する想いは、子の年齢には関係ないのだなと思いながら、また涙がでてきた。






それでも、私は最悪の場合も想定しておかなければならない。
父も母も、永遠にはいない、順番でいけば娘より先に死んでしまう。

けれど、私は、この事実を、のどかなこの家で、一年で一番、美しいこの時期に、娘に話すのは、ためらわれた。

aki-(2).jpg



私たちが、死について話すときは、どんな場合だろう。
日常の生活で死ぬことを話す事はあるだろうか。

死はある日突然訪れるにしても、または、末期癌の患者のように、余命を知る形でとしても、死を恐れるのではなく、死を真正面に受けて立つことが出来ないかと、私の今後の生きる目的でもある。

この不安感を克服しない限り、私の心は死の暗い顔をした陰に支配されたまま、美しいモノや愛すること、心躍るもの、何より木々を愛でる心をなくしてしまう。

心に言い聞かせながら、今日、里の家に戻ってきた。




にほんブログ村 ライフスタイルブログ 丁寧な暮らしへ
いつも、イイネクリック、コメントをありがとうございます!
---------------------------------------------------------------------

コメントボードが閉まっているときは、
『コメントはこちらからどうぞ』のすぐ下、
一言メッセージボードも、ご利用くださるとありがたいです。

改行をしなければ(エンターキーを押さなければ)、
長文も可能ですので、よろしくお願い申し上げます。













わが里の美しい緑に想うこと

里の家に戻りました。
もうすぐ、この里は、真っ白の絨毯に蔽われ、静かな眠りにつきます。

それまでの短い、この鮮やかな季節は、いつも私に元気をくれるようです。

例年になく早い、今年の紅葉、わが里も、遅ればせながら、木々のお色直しが終わった。

kino3.jpg


sato.jpg

巡りくる季節に、心酔いしれることも、今日は思うことが半分くらいで、久しぶりのわが家の木々に、何とも申し訳ないこと。

庭を巡りながら心に浮かぶのは、いくらお金があっても、買えないモノってなんだろうと。
ふと、そんなことが浮かんだ。

若さ、過去に戻ること、失った命を元にもどすこと、などなどが浮かんでくる。
人生には、常に生老病死という大きな哀しみが付きまとう。
確かに、生きる上では老いること病で伏したり倒れたり、それでも、老いや病に関しては、健康な身体を自分でコーディネイトすることはできる。

医者を選ぶのも寿命のうちと言う。
適当に医師に罹り、日常の暮らしの中で自分でできる健康法を実行する、そんなことで、老いや病を少し遠ざけることができるかもしれない。

若さだって、努力次第で手に入れることは可能だろう。

では、お金でや努力で買えないモノはなんだろう。

私はずばり、『 命 』ではないかと、落ち込み気味の今日は、そう思う。



雨に煙る峠のわが家の樹木も色づき、冬支度を整え終えた。

sato2.jpg

裏庭の小道には、恥ずかしさを置き忘れたかのように、鮮やかなつわぶきが咲いている。

tuwabuki.jpg

屋根から見える、この鮮やかな出猩々紅葉も雨に濡れ、どことなく覇気がなく、樹木とは心の映し鏡なんだと、しみじみ思う。

5.jpg

今日一日、恙なく過ごせ、明日への糧となることで、人は生きていけるのかもしれない。
心にまた、元気が漲ってくることを願いつつ、里の石清水八幡さまに、手を合わせた。




にほんブログ村 ライフスタイルブログ 丁寧な暮らしへ
いつも、イイネクリック、コメントをありがとうございます!
---------------------------------------------------------------------
お世話になりまして、ありがとうございます。
もう一日、コメント欄を閉じさせていただきます。
よろしくお願いいたします。

それと、一言メッセージボードに、書き込みをありがとうございました。



弱い私に残してくれた、母の言葉を噛みしめながら

暦の上では春というのに、大阪には雪が降っていた、そんな3月のある寒い朝に、私は生まれた。


私は4姉妹の次女として、この世に生を受けた。
長女と私の間には5年も年月が離れている。

そのせいでもないだろうが、私は生まれる前からなんとなく、待ち望む父や祖父、親戚中にも次は男の子が生まれるのではないかと、期待半分で思われていた。

夜半から痛み出したお産は、二度目にしては重いものだったらしい。

長い時間をかけて、私がこの世に出てきたのは、早朝3時。
春はあけぼの、と言いたいが、春にしてはとんでもなく荒れた初冬のような寒さのなか、母は、私をこの世に送り出してくれた。

男子誕生を心待ちしていた父の落胆は、傍目にも気の毒なくらいだったと、中学校のころに叔母から聞かされたことがある。



大阪の一部の地域だけかも知れないが、誕生した日の気候が、その赤ん坊の人生に深く関わると言われる。

私の場合、春嵐のような気候の朝に生まれたので、嵐のような波乱万丈にとんだ人生を送ることになると、周囲は心配したらしい。

決して生まれのせいにするわけではないが、私は感情面では、浮き沈みが激しい。
極端に人見知りをするし、気軽に女子友などもつくることが出来ない。
落ち込んでいるときは、年齢を重ねれば重ねるほど、憂鬱なことが増えていくような気がする。
若いころのように、目の前には輝かしい未来が広がっている、と安穏と思えなかったりもする。


この”ふさぎの虫”は、気候にも左右され、わが国を取り巻く世界情勢など〔日米問題や、ロシア中国などとの関係性など〕のニュースを聞いても、落ち込んでしまう。

徒然草を認めた、吉田兼好のような高僧でも、『 あやしうこそものぐるほしけれ 』と、日々に心にふと、死の影が忍び寄り、不安な感情が湧き上がり、心には嵐が吹き荒れることもあったのだ。


凡人の私なら尚のこと。
こうしてブログに心を吐き出し、コメントをいただくことで、最近は、心底、落ち込むほどの悩みがあっても、構わないではないかと、日々をやり過ごせるようになってきた。

私の、今の落ち込みの元は、乳癌検診の結果が出るまでの、不安と心細さ。
もし、もしかしたら、シコリが悪性だったらという恐怖が心を占める。


かつて、若い私に、母が言ったことがある。

「人生は、いつか死んでしまうという大きな哀しみを、毎日の暮らしの中の小さな喜びで包みながら生きるもの」

正確にはこうではないけど、母が常々言ってきたことを言葉にして、母が特に私に言ってくれた意味を、心に浮かべてみる。

春の嵐の日に生まれた私を、母はやはり心配だったのだろうと思う。

心のポケットに大切に入れて、落ち込んだときには慰めていた、懐かしく過ぎ去った日々の優しさの数々、ままごと遊びをした空き地、はないちもんめで遊んだ広場、幼いころの母や姉妹、祖母の思い出など、そして何より、今の私の愛する家族、それらが、毎日を過ごす中の小さな喜びとして、大きな哀しみを包んでいたんだ。

嵐の朝に生まれた赤ん坊に、太陽がぽかぽかと降り注ぐようにと、亡き母が、若い私に向けたエールだったのではと、思える。

けどお母さん、
「こんなときは、心のポケットに入れている大切なモノたちだけでは、私を救ってくれないよ」

あなたの子どもにかえり、お母さん助けて、弱い私を守ってと、叫べたら。



にほんブログ村 ライフスタイルブログ 丁寧な暮らしへ
いつも、イイネクリック、コメントをありがとうございます!
---------------------------------------------------------------------



乳癌検診に行けなかった自分が、情けない

一カ月くらい前だろうか、左乳房に小さなぶつぶつとした湿疹ができた。
もしかしたらダニに咬まれたのかと、様子を見るうちに痒くて痒くて掻きむしりたくなってくる。

一週間くらいして、痒みがとれたと思ったら、次はなんと湿疹ができた乳房が熱を持ち、綺麗な四角形の形になって、赤く腫れあがってきたのだ。


この痛みは、どうにも辛抱できず、皮膚科を受診することにした。
自分の乳房の腫れあがった状態を診てもらった方がいいと思う気持ちが、乳房を見せる恥ずかしさに勝った。


さすが、お医者様という職業の方とはすごいなと思ったのは、私の腫れた乳房を一目見るなり、

「あぁ、線上皮膚炎ですね、薬を出しますか?」と、こともなげに言われたこと。

「やっぱり薬を塗らないと治らないでしょうか」

「まぁ、このままでもしばらくすれば、自然と治りますよ」

ということで、私は薬は要りませんと、言う。



線上皮膚炎は、その後、医師の診立てどうり、一週間ほどで跡形もなく治り、ほっとしたのもつかの間、10月に入ったばかりのころだった。


お風呂で身体を洗っていた私は、胸に何かゴリゴリしたものに触れた。

「えっ!シコリ!」と、びっくりして、ドックンドックンと心臓が早鐘のように打つ。

恐る恐る、ゴリゴリのある場所を、指の腹で押して見た。
やっぱりある!しかもそこは、線上皮膚炎に罹った、また過去に良性の乳腺炎で手術した、同じ場所だった。



触診できない、けど、シコリがあるのは自分で分かっている。
分かっているのに、触れない。

恐怖から、私は、そんな悪循環に陥ってしまった。


怖さから検診を受ける勇気がでない。
そんな状態がおよそ一カ月も続き、私はその間ずっと、自分の胸にあるシコリが悪性だとしたらという不安に、押しつぶされそうになっていた。


そして昨日、やっとやっと、勇気を振り絞って、乳癌検診を受けてきた。



乳癌は唯一、自分で触れて見つけることができる癌だという。
定期的に自己検診をしていて、シコリを発見し、一命を取り留めた体験を書いたブログもある。


乳癌の早期発見などの本を読むと、『パチンコ玉のように固く、境界が歪で、動かないしこりを見つけたら、病院で検査を受けましょう』と書かれている。



けれど、癌のような悪性のシコリと、乳腺が発達している女性に多い、良性のシコリとの違いを、どうやって区別すればいいのだろう。


過去に良性の乳腺炎で手術を経験している私は、「今回は、良性でしたが、シコリができやすいから定期的に検診を受けた方かいいですね」という医師の言葉だけが頭の中でグルグル回る。

もしかしたら再発か、その場合はついに悪性か、という恐ろしさでいっぱいになり、自分でそれ以上、シコリに触れることができなくなってしまったのだ。



二人に一人が癌になる時代なら、是非とも保健センターや役所、あるいは病院外来などで、シリコンなどで制作した乳癌の模型を置いて、『癌のシコリ』 に直接、触らせてもらえないだろうか。

その区別、違いが少しでも実感できていたら、今回の自分の、乳癌検診を受けようと決心するまでの一カ月間のあの不安は、少なくとも軽くなるように思うのだ。

と、自分の臆病を棚に上げ、思ったことだった。

それにしても、あと数年で還暦だというこの歳になって、つくづく不甲斐ない自分が情けない。
もし、これが悪性のシコリなら、一カ月も病院の受診を渋ったことで、取り返しのつかないことになるのかもしれないのに・・・・・・。


癌に罹るのが怖いくせに、受診するのが怖いから診てもらわない、この矛盾は、偏に自分の臆病からくるものなのだ。

結果は、三週間後らしい。


にほんブログ村 ライフスタイルブログ 丁寧な暮らしへ
いつも、イイネクリック、コメントをありがとうございます!
---------------------------------------------------------------------

いつも長文をおしまいまで読んでくださって、感謝いたします。
出かけますので、本日は、コメント欄は申し訳ないですが、閉じさせていただきます。
皆さまへのご訪問は、帰宅してからにさせていただきますね。

尚、コメントボードの下には、足跡代わりになるかなと思い、『一言メッセージボード』 も設置しています。

もしよろしければ、そちらもお使い下さい。
ありがとございました。♪(∩。∩;)ゞ・


守護霊を信じますか

私はそそっかしい上に、生活の中での行動がギクシャクとアンバランスなのか、幾つになっても落ち着きが足りないと、自覚している。


4年前の自宅での転倒による足の怪我も、そんな性格が災いしたのが一因にあると、今持って後悔の念に耐えない。

今まで大きな病気はしたことはないけど、命に関わるくらいの重大な事故には何度も遭遇している。
7歳の海での遭難事故に始まり、自転車で転倒してトラックに跳ね飛ばされ、町始まって以来の大事故だと、周囲を驚かせたた10歳のころ。


中学生のころは、プールで頭を激しく打ち、しばらくプールの底で、意識不明になっていた。
指導員の人に発見してもらえなかったら、ゾッとする結末になっていたかもしれない。
こうして、呑気にブログを書く自分が存在しなかったのだ。

ところが、不思議なことがある。

死ぬような目に遭っている私には、その都度、いつも生の方へと導いてくれた力が常にあった。

小さなころに海で溺れたとき、プールの脳震盪、また、娘の大学入学式のあとのお寺参りで山門の頂上から転げ落ちたとき、常にある力が作用して、私の命を救ってくれた。

お寺参りの、山門の頂上転げ落ちのときは、落ちる瞬間をスローモーション映像で、今も明確に思い浮かべることができる。


娘が先に下に降りて、階段下で待っている。
今しも落ちようとしたその瞬間、血塗れになった私にすがりつき泣く、娘の姿が見えた。
そんな無様な死に顔を、最期の母の縁にするわけにはいかない。


私は、強く念じた。
「あかん!今、そんな姿で死にたくない!そんな母親を娘に見せたくない!」

その時だった。
私の背中の肩甲骨を、グイっと強い力が引っ張った。

その力によって、私の体がふわっと軽くなり、転げ落ちるスピードが弱まったのだ。

そして私は、山門の13段のてっぺんから転げ落ちたというのに、鼻の下にちょっとの切り傷を負っただけの、ごく軽傷で済んだ。

お寺の方が呼んでくれた救急車も、申し訳ないけれど、強くお断りし、自分で運転した車で帰宅した。
鼻の下には絆創膏を貼り、ほどなくして血は止まった。



当初は目立ったその傷跡は、年月とともに薄れゆくけれど、軽傷とはいえ、顔中を血だらけにした母を見た娘は叫び声をあげながら泣いた。


その娘の姿を思い浮かべると、まだ泣けてくる。
死ななくて良かった、怪我で済んでよかったと思う。

心配のあまり、怒り心頭の娘に言わせると、私は絶対に事故で、あっけなく命を失うそうだ。

確かに、過去の事故の数々を振り返ると、命を失っていたかもしれないケースが多々ある。


それもやっぱり、粗忽モノの性格、行動が、災いしているかと情けなくなる。
分かってはいるけど、自分で事故を引き寄せるのか、とにかく災難には、よく遭ってしまう。

けれどもそれだって、ひとつ間違えば、失神や怪我だけでは済まない状況に、やはり私には、ご先祖さまの内でも、相当に強力な方が守護霊として付いていてくれている、としか考えられないのだ。




にほんブログ村 ライフスタイルブログ 丁寧な暮らしへ
いつも、イイネクリック、コメントをありがとうございます!
---------------------------------------------------------------------






該当の記事は見つかりませんでした。